両方とも30の夫婦です。

 春先に、連泊で温泉旅館に行きました。
温泉場の選択を間違えたらしく、湯治場のようで、お客さんも年齢層がかなり高めでした。
明らかに、私たち夫婦は浮いていたと思います。

そんな温泉場の旅館にチェックインする時に、50もいかない40後半の男性に話しかけられました。
気さくな感じですが、女性の扱いに長けているような男性でした。
まじめな和子が今まで遭遇することのなかっただろうなという男性のタイプです。

怪我の傷を癒すために、一人湯治に来ているとのことでした。
私たちはその後も男性に何度か話しかけられました。 一人で来ている寂しさからなのか、
まさか、魂胆があってのことなのかとも思いましたが、深くは考えませんでした。

そんな話はそうそうないだろうと思いましたし、魂胆があったとしても、おそらく何も
起こらないだろうと思いました。
寝床で他人棒を何度もささやいても、上手にはぐらかす和子ですから・・・。

今回は、小学校の息子を実家に預けて、夫婦だけの旅行です。
和子は久々の開放感を満喫しているようでした。
それだけで温泉場を間違えたかなという気持ちは払拭されました。

 初日、チェックインを済ませ、観光地をすこし回った後、旅館に戻り温泉に入ることに
なりました。
私は、探し物があったので、和子より後に部屋を出ました。

当然、私が鍵を持たざるを得ず、温泉からあがった後にはと中庭の見える休憩所で待ち合
わせをしました。
その後に宴会場で食事をする予定でしたので、宴会場の途中にある休憩所は都合が良かった
のです。

入浴を済ませ、その場所へいくと、和子が例の男性と楽しそうに話していました。
私の方が部屋を出て温泉へ行くのが遅かったためか、和子が先に温泉を済ませてしまった
ようです。
男性は、私に気づくと、軽く会釈をすると別の場所へ行ってしまいました。

私は、離れていく男性の背中を見ながら、楽しそうだったけどなにかあったのかと和子に
聞きました。
私の隣で、和子は、私を待ちながら中庭を眺めている時に、男性が話しかけてきたのだと
教えてくれました。

最近鉢植えガーデニングをはじめた和子は、男性と中庭について楽しく会話できたそうです。
見かけによらず、草花に詳しかったと、和子は笑いながら言いました。

私たちは食事を終えたあと、部屋へ戻りました。
久しぶりの旅行に疲れたのか、時刻が九時も回らないうちに、和子は早々と就寝してしまい
ました。

私は一人取り残された気持ちになりました。

しばらくは、テレビを見ていたのですが、どのチャンネルも退屈で、私はテレビを消しました。
手持ち無沙汰になった私は、部屋を出て館内を散歩することにしました。

私は、眠った和子を残して部屋を出ました。
とりあえず、時間つぶしに目的も無く、温泉旅館を歩きまわりました。
時間は午後10時前でしたので、時折、笑い声などが聞き漏れて、一層一人であることを
思いました。

しばらく歩くと、バーラウンジの前に行きつきました。
私は、誘われるようにそこに入り、一人お酒を飲みました。
一人でお酌をしていると、今日一日のことが振り返ってきました。
温泉地までの車中の和子との会話、観光地の様子、そして、例の男性のことがよぎりました。

あの男性は何故和子と会話していたんだろうか、魂胆があったのか、いやいや、思い過ごしだ・・。
そんなことが何度も頭の中をグルグル巡り、それと並行するようにお酒がすすみ、かなりの
量を嗜んでいました。
部屋に戻るころには、足がフラフラとしていました。

いつ寝床に入ったのか、ふと、和子の声がして、私はなんとなくうんうんとこたえていました。
和子は、朝風呂に言ってくるからと言っていたような気がします。
二日酔いで頭がグルグルしながら、携帯の画面をみると朝の5時くらいでした。
あんなに早く寝るからだと思いながら、私は、再びまぶたを閉じました。

ズキズキとした頭痛に誘われて、目を覚ましたのは8時頃でした。
すこし眠りすぎた・・・。
そう思いながら、隣を見ると、布団はもぬけの殻で、和子はいません。
夢朧での会話以来の状態なのか・・・。

あたりを軽く見回した後、ううっとこみ上げてくる吐き気に急かされて私はトイレに
入りました。

すっきりするまで、しばらくトイレにこもっていましたが、それでも和子が帰ってきた
様子はありません。
私は、すこし不安になって、部屋を出ました。
やはり、胸のどこかで、あの男性のことが気になって仕方ないのです。
不安に掻き立てられて、私は和子に携帯を掛けてみました・・。

しかし・・・、呼び出し音が続くばかりで、いつもの声は携帯の向こうからは聞こえません。
おいおい、まさか・・・、そんなことを考えながら、私は館内を駆け足で回りました。

しかし、館内をいくら探しても、和子は見つかりません。
それはそうだ、もし、そういうことになっているのなら、男性の部屋にいるんじゃない
のか・・・。
私は、そう思い直し、もと来た道を戻りました。

何をあせっているんだ?
私は、自分に自問自答しました。
変な汗が、額を流れ、背中を滴っているのがわかります。
あの男性にこうまでかき乱されるとは、しかも、何の確証もないのに・・・。
初めて会ったときは、一人湯治の寂しさからと、なんとも思いませんでした。
でも、一夜たった今では、なんだかわからない胸騒ぎがしたのです。

道のりを半分過ぎたとき、聞きなれた声が私を呼びました。
「あなた、あなた。」
振り返ると、和子でした。
「探したんだぞ。」
私は、やや怒りをこめた口調になっていました。

「どうしたの、そんなになって。」
和子は驚いた顔をして、私を見つめました。
その視線に、私はとんでもない早とちりをしたんだと思いました。
「いや、なんでもない・・・。」

とんだ勘違い野郎じゃないか・・・、私は恥ずかしくなりました。

でも・・・。

私たちは部屋に戻り、予定が遅れたものの観光地を回る支度をしていました。
そのとき、和子が切り出したのです。

「さっき、怒っていたのって、片岡さんとのこと?」

私は、片岡という名前に聞き覚えがなかったのですが、おそらくあの男性だと思いました。
それよりも、和子が名前を挙げてあの男性のことを口に出したことに固まりました・・・。

しかし、和子の口調が申し訳なさそうだったことが救いでした。
私が、何に対して怒っていたのか、それを考えた結果、あの男性のことかもしれないと
考えたのでしょう。
そして、本来、何も言わなくても済んだのかもしれないのに、あえて、何が起こったのか
を洗いざらい話してくれました。

朝の出来事を・・・。

昨晩、早い就寝のせいで朝早く目が覚めてしまい、時間つぶしに温泉に行ったそうです。
私の寝ぼけながらの応答も夢ではなかったのです。

そして、和子が沐浴していると、あの男性・・・、片岡さんが温泉に入ってきたとのことでした。
それを聞いた時には、「入ってきた」という意味がわかりませんでした。

この温泉旅館には、24時間風呂を提供し続けるため、清掃時に男湯、女湯がそれぞれ混浴
となってしまう時間帯があったのです。
早朝ですし、まさか、表立っては女湯とのれんの出た温泉に誰も入ってくるわけがないと
思ったようです。
和子はその時間帯に女湯に入り、そこへ片岡さんが「入ってきた」ということでした。

和子は、最初はすぐに出ようかと思ったらしいですが、思い切って風呂からあがることが
出来ないまま、タイミングを逸してしまったのです・・・。

片岡さんと和子は温泉を共にすることになってしまいました・・・。
和子は、タイミングを逃したまま、すこし警戒をし、ナーバスであったようです。

しかし、片岡さんの話し掛けてくる口調は、男と女が裸でいるのにもかかわらず、いやらしさ
を感じさせなかったと和子は言っていました。
いつしか、混浴であることが気がかりでなくなり、そのまま、昨日に続き、草いじりの話で
盛り上がってしまったとのことでした。

ただし、じわじわと和子と片岡さんの距離は近くなっていたことに気付いてはいたようです
が・・・。
それも、自然だったので嫌な感じもしなかったと・・・。
それが安全だと思わせるのに自然だったのか、それとも、女性の懐に転がり込むのに嫌味
がない風だったのかは、私はその場にいなかったのでわかりませんが・・・。

盛り上がっていた時間も終わり、会話が途切れ、二人の視線が重なったそうです。

和子は、何故だか、片岡さんのつぶらな瞳に引き込まれてしまったとのことでした。
いままではとてもそんな雰囲気ではなかったのに・・・。
急に近い距離を意識したりして・・・。
時が止まったように、和子は声がでなかったそうです・・・。

そして、片岡さんは低い声で魔法のように・・・。

「奥さんは女の悦びを感じたことはありますか?旅先の情事なんてざらにあります。
良かったら、連絡をください。」

そう言って、片岡さんは温泉を後にしたとのことでした。

これが朝起きた出来事です。