「わあっ……!?  な、なにすんのさっ、お姉ちゃん!」
朝、ぼくはぐっすり眠っていたのに、お姉ちゃんのいたずらで びっくりして目が覚めた。 ぼくが寝ている間にお姉ちゃんは、ぼくのパジャマの ズボンとブリーフをずらして、ちんちんの上の方に 黒のマジックで落書きをしてたんだよ! 「ふっふふふ……、遅起きは3文の損って言うでしょ」 「い、言わないよっ。出てってよ!」 ぼくは布団を頭からかぶって、ずらされたパジャマをはき直す。 「人がせっかくあそこの毛を生やしてあげたっていうのに」 真っ暗な布団の中でぼくの顔は、かあっと赤くなる。 「へ、変なことしないでよ! こんなの誰かに見られたら  どうするのさぁっ」 「へーえ、倫悟って人前であそこを見せたりするんだぁ。  やだぁ、変態じゃないのー」 「うるさいっ、早く出てけぇ!」 急にしんと静かになる。 あれ? お姉ちゃん何も言い返してこないぞ…。 ぼくが恐る恐る布団から顔を出してみると―― がんっ! ぼくの目には星がちかちかと点滅したように見えた。 お姉ちゃんの跳び蹴りを、もろに顔面に受けたからだ。 「ひっ…ひいいぃ!  痛い…痛いよおーっ! うわあーんっ!!」 泣き虫なぼくはすぐに大声で泣きだしてしまった。 どす、どす、どす。 ばたんっ! 「未甘っ、朝から何をやってるんだい!」 鬼より恐いお母さんがぼくの部屋にやってきた。 「あ、あたし、何もやってないわよぉ。  倫悟がまだ寝てたから起こしてやっただけだもん」 「じゃあ、なんで泣いてるんだい」 「し、知らないわよ。恐い夢でも見たんじゃないの。  ねえ、倫悟。そうでしょっ」 お姉ちゃんは恐い顔でぼくの顔をのぞき込む。 「お……お姉…ちゃんが……、ぼくの…ぼくの顔を  蹴ったんだぁ…」 ごんっ! 「きゃあんっ!」 鈍い音がお姉ちゃんの頭の上で炸裂した。 「どうやら朝っぱらからお前にはお灸をすえなきゃ  いけないようだねっ。  こっちに来な」 「やっ、やだぁ! 離して、おかーさんっ、離してっ…」 じたばたと暴れるお姉ちゃんを、お母さんはひょいと 抱え上げてぼくの部屋から連れ出して行った。 隣のお姉ちゃんの部屋が開く音がして、すぐにぴしゃりぴしゃりと いうお尻を叩く音が何度も聞こえてくる。 いい気味だよ。ふんっ。 ぼくは時計に目をやって、あわてて着替え始める。 **未甘** いったぁ~。 おかーさんったら本気で叩くんだから。 今時、パンツを下ろしてお尻を叩く親なんてうちの おかーさんぐらいなものよ。 あたしはじんじんするお尻を押さえながら階段を下りた。 キッチンでは、憎ったらしい倫悟があたしの目を さけるようにして朝ご飯を食べている。 「早く食べな。遅刻するよ」 そう言っておかーさんはあたしの前に こんがり焼けたパンを置いた。 「いっただきまぁす」 あたしは元気よくパンにかぶりつく。 「ふぅ、未甘も、もう少しおしとやかにならないかなあ」 おとーさんがコーヒーを飲みながらぼやいた。 さっき、倫悟を泣かしたことを言ってるんだろう。 「誰に似たんだろうね」 そう言っておとーさんはおかーさんの方を見る。 「お父さんじゃないのは確かだね」 おかーさんはおとーさんの顔を見ながら、にやりと言った。 「おかわりっ」 あたしは2つあったパンを両方ともたいらげて お皿を出した。 「もう食べたのかい。それだけ食べてよく太らないねえ」 「あたしはおとーさんに似たのっ」 「倫悟もどうだい?」 おかーさんに聞かれた倫悟は首を横に振って答えた。 だって倫悟ったら、あたしより先に食べてるくせに まだ1つ目のパンを持て余しているんだもの。 さて、この辺で自己紹介しようかしら。 あたしは古津 未甘。(ふるつ みかん) 小学校6年生よ。で、さっきあたしがこてんぱんに いじめてやったのが弟の倫悟(りんご)。 おっかしな名前でしょー? 体は小さいくせに、生意気にもあたしと同じ6年生。 兄弟なのにあたし達兄弟は同い年。 そう。あたしと倫悟はなんと双子なんだ。 でも全っ然、似てないの。なんでも「にらんせいソーセージ」 がどうのこうのっていう難しいのがあって、あたし達は あまり似てないんだってさ。なんでソーセージが関係あるのか よく知らないけど、とにかく倫悟の奴とあたしは一緒に 生まれたらしいの。 でも生意気でさー。さっきだって、あたしよりてんで 弱いくせに歯向かってくるのよ。ヒョロっとしてて見た目も なんだか女の子みたいなくせに。 いい年してTVアニメやファミコンなんかに夢中になってて、 恥ずかしいったらありゃしない。 あたし? あたしはいわゆる体育会系ってヤツ。 自慢だけどケンカだってうちの学校じゃ一番強いんだから。 だけどそんなあたしも、さすがにおかーさんにはかなわない。 倫悟を泣かすとすぐに飛んできてあたしのことぶったり するんだもん。めちゃくちゃ大きいおかーさんでね、 もうまるで相撲取りみたい。 あ、これ内緒よ。こんなこと言ったのバレたらまた お仕置きされちゃうから。 それで、まるで正反対なのがおとーさん。すらっとしてて いかにも紳士っていう感じ。 あたしがおかーさんに思いっ切り叱られて落ち込んで いる時も、おとーさんはいつでも優しくしてくれるの。 ファッションもおしゃれで結構かっこいいんだから。 父兄参観日なんかあると、とっても嬉しいのよね。 かっこいいっていえば担任の先生もいい線いってるの。 男の先生でね、すっごく優しくてかっこいいし、スポーツ万能。 他のクラスの子がうらやましがるくらいなんだから。 それに滅多にあたし達のこと怒らないし、よっぽどのことで ないと手を出さない先生なの。 今までに先生に叩かれた子はたったひとり。誰だと思う? え、あたし? あたしはそんな悪いことしませんー。 誰だかわからない? 実はそれはね、なんとあの倫悟なの。 意外でしょ? しかもね、叩かれた理由は教室であたしの服を引っ張って 胸をクラスの子に見せたからなのよ。最低でしょおー。 あたしだって女の子だもん。びっくりして泣いちゃって それからちょっとの間は、ずっと落ち込んでた。 あの頃は元気がなくなってあたしらしくなかったな。 まあ、倫悟がそんなことしたのは元はといえばあたしが 悪いんだけど……。 その後はちゃんと仲直りしたけどね。 あっ…と、いっけない。もうこんな時間! うちの担任の先生ってば、いつも優しいけど遅刻とかには うるさいのよね。 ほら、行くよ、倫悟っ。 **倫悟** ぼくは今日一日中、授業中も休み時間の間も 落ち着かなかった。だってお姉ちゃんのいたずら書きが 気になってしょうがないんだもの。 あーあ、こんなのトイレに行った時、もし誰かに見られたり したらぼく、二度と学校に来られなくなるよぉ。 ふう、今日は水泳の時間がなくてよかった…。 図書室で本を借りて教室へ戻っているとき、廊下で肩にポンと 手を置いて誰かが声をかけてきた。 「今日は元気ないな」 担任の先生だ。 「そんなことないよ」 ぼくは無理に元気そうな振りをして答えたけれど、 余計にわざとらしい返事になってしまった。 「誰かとケンカでもしたのか?」 先生は歩きながらぼくの肩に手を回して聞いた。 「別に……」 「もう未甘とはきちんと仲直りできてるんだろう?」 ぼくは前を向いたまま、小さくこくりとうなずいて答える。 「だったらちょっとぐらいケンカしたって気にするなって。  ほら、よく言うだろう。ケンカするほど仲がいいって」 「仲なんかよくないもん…」 ぼくは自分でも恥ずかしいくらい、ふてくされたように言った。 しばらく、ぼくも先生も黙ったまま歩いていたけど、 急に先生は言った。 「倫悟」 「え?」 先生は立ち止まってしゃがみこむと、ぼくの目を見た。 優しく、とても真面目な目をしてぼくを見る。 「どうして未甘がお前にちょっかいばかり出すかわかるか?」 「どうしてって……、そりゃあ…。  ぼくが困ったりするのを面白がって…」 「あの子はあれで………すごく寂しがりやなんだ」 「え……?」 あのお姉ちゃんが寂しがりやだって? 「未甘が本当に心を許しているのは倫悟、お前だけなんだよ」 「うそ…」 声に出して言うつもりはなかったのに、思わず口をついて出た。 それぐらい意外だった。 なんで先生はそんなことを言うんだろう。本気で言ってるのかな。 本当にお姉ちゃんはぼくのこと、そんなふうに思ってるの? 「お姉ちゃんを大切にするんだぞ」 先生はぼくの頭をくしゃくしゃになるぐらい強くなで回して 立ち上がった。 「じゃあな」 ポンポンってぼくの背中を軽く叩くと、職員室の方に 行ってしまった。 ぼくも教室に戻ろうとした時だった。 ふと足下を見るとハンカチが落ちている。 ピンク地に、淡い赤や紫の花柄のハンカチで、ぼくらが持つには ちょっと大人っぽい。誰のだろうって拾ってみると端の方に名前が 書いてあった。 ”6年3組 富良羽 さくら” あっ、これ、さくらちゃんのだ! 隣のクラスの女の子で、すっごくかわいいんだ。 べ…別に、す、好きなわけじゃ……ないんだからっ…。 周りをきょろきょろ見回すと、さくらちゃんが廊下の少し先の 方をまだ歩いているのが見える。 「ねえっ、ねえ!」 かけっことかあまり得意じゃないけど、ぼくは全速力で さくらちゃんに追いついた。12年間生きてきて一番速く 走ったんじゃないかと思うくらい思いっ切り急いだ。 「はあ……はあ…はあ………はあ…。  こ、これ……はい…」 そういって、ぼくはぜいぜい息をしながらさくらちゃんに ハンカチを渡した。 「私のハンカチ。さっき落としちゃったのかな。  拾ってくれてありがとう、古津君」 「えっ、ぼくのこと……知ってるの?」 「だって古津君、お姉ちゃんと双子なんでしょ。  とっても有名だもん。知らない子なんていないよ」 確かにそうだ。双子だけでも珍しいのに、ぼくらは同じクラス。 しかもお姉ちゃんは学校一の暴れん坊ときてる。 って、こんなこと言ってるの知れたら半殺しの目にあうけど。 「古津君こそ私のことよく知ってたのね」 「そ…そりゃ…富良羽さんだって、学校じゃ有名だもん」 「え、どうして?」 さくらちゃんはにっこり笑って言った。 わあ…、胸がドキドキする……。 「だってかわいいもの」 ぼくは思ったことを、ついそのまま口に出してしまった。 すぐに「しまった」と後悔した。こんなこと面と向かって 言う男子なんてきっと嫌われる…! だけど、ぼくの心配をよそに、さくらちゃんは少しほっぺたを 赤くして照れながら言った。 「やだ、古津君ったら。そんなにストレートに言われたら  恥ずかしいよ。  でも少し嬉しかったりしてぇ…。  ねっ、私達友達にならない?」 ええっ!! う、うそ……うそだ…! さくらちゃんが自分の方から友達にならないって……。 「本当っ? なるなるっ!」 ぼくはすぐに返事をした。 「じゃあさ、今日さっそく遊ぼ。  学校が終わったら…」 ぼくが夢でも見てるんじゃないかと舞い上がっていたその時! 「倫悟。何を話してるの?」 ぎくっ。 ぼくはその声に、体へ雷でも落ちたぐらいにびっくりした。 振り向くと、そこには不敵な笑み(としか言いようがない)を 浮かべた「鬼」(やっぱりそうとしか言えない)、 お姉ちゃんが腕組みをして立っていたんだ。 「古津君のお姉ちゃんでしょ?」 「う、うん………。  何だよ、お姉ちゃん…」 ぼくは精いっぱい無理をして強がってみせる。 「あんた遊ぶ約束なんかをしてたみたいだけど、  今日はうちの用事があるのを忘れてやしないでしょうね?」 「ええっ、古津君、用事があったのぉ」 そんなこと聞いてないっ。 ぼくはすぐにお姉ちゃんの意地悪だとわかった。 「そんなのぼく聞…」 ぼくが言いかけたとき、お姉ちゃんはつかつかと 寄ってきて、ぼくの手首をぎゅっと握った。 お姉ちゃんは手にすごく力を入れてくる。 「あっ…痛!」 「ダメでしょ、倫悟。おかーさんとの約束忘れちゃ。  あのね、今日の夕方、あたし達買い物に行く約束をしてるの。  悪いけどまた今度遊んでやってね」 お姉ちゃんはそう言うと、ぼくの腕をぐいぐい引っ張って行く。 「それじゃあ、また今度遊ぼうねっ」 さくらちゃんはそう言うと、すたすたと自分の教室の方に 戻っていく。 ああ、さくらちゃんがあ……。 ぼくはさくらちゃんを呼び止めて、これはお姉ちゃんの 意地悪なんだって言いたかった。 だけど腕に爪を立ててじろりとぼくをにらむから、 本当のことを伝えたくても伝えられない。 せっかくさくらちゃんと仲良くできるチャンスだったのに!! **未甘** その日の帰り道、倫悟は珍しくすごく強気な態度で 文句を言ってきた。 「ひどいよ、お姉ちゃん。あんまりだ」 「何のこと? さっぱりわからないわよ」 あたしはわざと知らない振りをする。 「今日、学校で嘘を言って、さくらちゃんと遊ぶ約束を  邪魔したじゃないか」 「あーっ、『さくらちゃん』だって。  倫悟ったら富良羽さんのこと、すごくなれなれしく  呼んでるぅ。あの子が好きなんだぁ」 「ちっ…違うよっ…!」 途端に倫悟のほっぺたは赤くなる。 「やーい、赤くなった、赤くなったぁ。  好きなんだ、好きなんだー。やらしー」 あたしは調子に乗ってはやし立てた。 「お姉ちゃんのバカぁっ!」 むかっ。バカですって? 倫悟のくせに! 「もういっぺん言ってみなさいよ」 あたしが恐い顔ですごんでみせると、すぐに倫悟は黙り込んだ。 「あれは朝のお返しよ。あんたがあたしの言った通り、  ”恐い夢を見て泣いていた”って言えばおかーさんに  叩かれなくてすんだんだから」 「だ、だって、あれはお姉ちゃんがぼくに変なこと  したからじゃないかぁ…」 「ごちゃごちゃとうるさいわねっ。あたしに逆らう気?」 あたしはじろっとにらむ。倫悟はこれにめちゃくちゃ弱いんだ。 「もういいよ…」 「よくないわよ。あたしに『バカ』なんて言った罪は重いのよ」 「ごめんっ、ぼく謝るからぁ……」 「だめよ。今夜、罰を与えるから覚悟しておくのね」 「や、やだっ…待ってよ、お姉ちゃん!」 しっかりおどかしておいて、あたしは早足に家へ帰った。 見てなさい。とっておきの「罰」を与えてあげるんだから。 **倫悟** あーあ、気が重いよ。 うちに帰ったらきっとひどい目にあわされる。 なるべく帰る時間が遅くなるように、本屋で立ち読みを したりして時間をつぶした。 けど、あまり遅くなっても今度はお母さんに叱られる。 仕方なく、ぼくは6時頃にうちに帰った。 お姉ちゃんが何か言って来ないかとびくびくしながら、 とりあえずお母さんのいる安全な台所に向かう。 今のところ、お姉ちゃんは姿を見せない。 でも油断はキンモツだ。 「おや、お帰り倫悟。今日は珍しく遅かったんだね」 お母さんは流しの前で料理をしながら、首だけこっちに 向けて言った。 「う、うん。ちょっと遊んでたら遅くなったんだ」 「そうかい。それじゃ早く支度しな」 お母さんはもう一度前を向いて料理の続きをし始める。 「えっ、支度って?」 「未甘とお風呂屋さんに行くんだろう? 未甘はとっくに  準備を済ませて待ってるよ」 振り向きもせずにそう言った。 「そんなの…」 お姉ちゃんの嘘だよ、と言おうとした時だった。 「倫悟、ずいぶん遅かったじゃない」 なんてこった! いつの間にかぼくの後ろにお姉ちゃんが 立っていた。 洗面器を抱えていて、その中にタオルやシャンプーなんかを 詰め込んでいる。 「あんたも早く用意しなさい」 嫌だ、と言おうと思った。でもその前にお姉ちゃんが お母さんに聞こえないようにそっと耳打ちした。 『あんたが前、部屋でマスターベーションしたこと  おかーさんに言っちゃおうかなあ…』 『やっ…やめてよ!!』 ぼくは顔を真っ赤にして、お姉ちゃんとお母さんを見ながら 小声で叫んだ。 『あれはお姉ちゃんがぼくに無理やりやらせたんじゃないか!  そんなことしたら、お姉ちゃんも怒られるんだからっ』 必死でぼくは抵抗する。だけど無駄だった。 『学校でも言いふらすから。  クラスのみんな、びっくりするわよね、きっと。  みんなに笑われるわよ、あんた』 『やめてよ、お願いだからやめてよぉ…』 もうダメだった。 ぼくは半泣きでお姉ちゃんにお願いするハメになる。 なんでこうなるんだろう。ぼく、なんにも悪いこと してないのに……。 『じゃあ行くのね?』 『………』 ぼくは黙って答えなかった。「うん」って言ったらおしまいだ。 だって、ちんちんにヘンな落書きされてるのに、 お風呂屋さんなんていけるわけないよ! 「おかーさーん、あのねー。倫悟ったら…」 「ワーッ、わー、わあーっ!」 あわててお姉ちゃんの口を押さえる。 「なんだい、またケンカしてんのかい?」 お母さんがじろりとこっちを見る。 「違うもーん。あのね、倫悟ったらね、マ…」 「お姉ちゃんっ、早くお風呂屋さんに行こうよぅ」 ぼくは今にも泣きそうな顔で、お姉ちゃんの手を引っ張って 台所を出ていくしかなかった。 **未甘** あたし達は近所の銭湯「森の湯」に来た。 ちょっと古くさい名前だけど、あたしが4年生の時に 建て直して、ちょっとしたレジャーランドみたいな感じに なったんだ。 泡風呂や電気がビリビリくるやつなんかはもちろん、 体中に塩をいっぱいつけれるサウナや、温泉の素が入ってる お風呂なんかもあって結構面白いんだから。 ここへ来るまでの間中、倫悟ったらずぅーっと黙ったまま。 あたしが何か言っても無視してるから、頭をパンって叩いたら またすぐに泣き出すし。 ほんっと、泣き虫なんだから。 森の湯に着いても、倫悟は入り口の前でじっと突っ立っている。 「さ、何してるの。入るわよ」 「ぼくお金もらってないよ…?」 「あたしがおかーさんからもらってるわ」 「ぼくの分、ちょうだいよ」 「あたしがまとめて払うの」 「そんなこと言ったって男湯と女湯、入り口が別々じゃないか」 あたしはにっこりと笑った。そう、倫悟に意地悪するときの あの笑顔だ。 「誰があんたは男湯に入っていいって言った?  あんたも女湯に入るのよ」 途端に倫悟の顔は真っ青になる。 「いっ……、嫌だよぉ!!」 「言ったでしょ。罰を与えるって」 「やだもん! ぼく、帰るっ」 倫悟は走って逃げようとしたけど、あたしは素早く腕をつかんで 捕まえたわ。逃がさないんだから。 「は、離してよお!」 「女湯に入るんだったら離してあげる」 「嫌だもん! お母さんに言いつけるよっ」 「あ、そぉー。へえぇ。  いいのかなぁ……」 あたしはそっぽを向いて言った。 「おっ…お父さんにも嫌われるんだからっ!」 ふんっ、そんな脅しがあたしに通用すると思ってるの? 甘いわよ、倫悟。 「皆さん、聞いて下さぁい!」 あたしは倫悟の腕をつかんだまま突然大声を上げた。 道を歩いている人達がこっちを振り向く。 倫悟はもう大あわて。 「ここにいる古津倫悟はぁー、まだ小学生のくせにぃー、  毎日マスタ…」 「わあーっ、ワーワー!!」 「しかも姉のあたしにやらせろって言いまぁーす!  何をやらせろって言うとぉー、セッ…」 「ウソだぁ! お姉ちゃんが言ってること、全部全部  ぜーんぶウソだあっ!」 みんながこっちをじろじろ見たり、くすくす笑ったり している。それに気づいた倫悟は急にうつむいて もじもじしだした。 「やめてよ…、なんであんなウソつくんだよぉ。  ねえ、もう許して。ぼく…謝るから」 叱られた小さな子みたいに、上目づかいで倫悟は困り果てる。 「だめ」 あたしはあっさり首を横に振った。 「だいたい、ぼく男なのに入れるわけないよ。  お風呂屋さんに怒られちゃうよ」 「心配いらないわよ。あんた見た感じ女の子だもん。  下さえ隠してればわかりゃしないから」 「そんなわけないよっ。絶対わかるよ。  そしたらぼく、警察につかまっちゃうよ」 「バッカねえ。そんなことでいちいち警察につかまるわけ  ないじゃない。  いいからぐずぐず言わずに入りなさいっ」 「やだあーっ!」 腕を力いっぱい引っ張ると、倫悟は入り口の柱に つかまって抵抗した。往生際の悪い子ねぇ。 「あと5秒以内に入らなかったら思いっ切り叩くわよ」 「そんなあ!」 あたしはげんこつを作って腕を大きく振り上げた。 「5……4……」 「ひどいよ。そんなのないよ」 「3・2・1」 あたしが手を振り下ろそうとしたら、倫悟は飛び上がって 「森の湯」の女湯へ駆け込んだ。 さあ、たっぷり仕返しをしてやるんだから。 2ページ **倫悟** とうとうぼくは女湯に入ってしまった。 ど…ど、どうしよう…。当たり前だけど中は女の人で いっぱいだ。 それに、やっぱり当たり前だけどみんな裸…! 男湯とは違う、女の人の匂いが周りに漂っていて、 胸のドキドキはいっそう早くなる。 とてもまともに前は見れなかった。 そんなぼくをよそにお姉ちゃんは、カウンターに行って お金を払っている。 「子供2人です」 「はい、じゃあちょうど頂くわね。  石鹸やシャンプーはいかが?」 「いりません。自分で持ってきたから」 「そう。それじゃごゆっくりね」 「ほら、倫悟。行くよ」 お姉ちゃんはひとりで勝手に脱衣場の方へ行ってしまう。 「あ、待って…」 ドキリ! 顔を上げたら、すぐ近くにいた裸の女の人が目に入っちゃった! 「わあっ、ごめんなさい!」 ぼくは耳まで真っ赤になって顔を下に向けた。 怒られる、と思って身構えたけど、その人はぼくを気にせず 浴場の方へ行ってしまった。 ふううぅ~。 もう、今度こそ前どころか足下だけしか見れない。 ぼくの頭の中にはさっき見た裸が勝手に浮かんでくる。 大きな胸とあそこにいっぱい生えてる毛……。 や、やだっ…、ち…ちんちんがおっきく……。 あんなの見て興奮してるなんて、ぼくってきっとヘンタイ なんだ。普通じゃないんだ。ぐすっ……。 それにもし、ぼくが男だってバレたら……。 ああ、どうしよう……どうしよう……。 胸はドキドキ、足はガクガク。 恐くて恐くてたまらない。 もう帰りたい……。 そうだ! こっそり帰っちゃえばいいんじゃないか。 これだけ大勢の人がいればお姉ちゃんもさすがにわからないはず。 なんでこんなことに気づかなかったんだろう。 ぼくってバッカだなあ。 逃げることに決めたぼくは、そろりそろりと歩いて 出入り口に向かう。 足下ばっかり見て歩いているからなかなか靴箱の所まで たどりつけない。 どんっ。 「あっ、ごめんなさい」 誰かにぶつか……、うわっ!! 「どこに行く気なの? り・ん・ご」 「お姉ちゃん!」 ぼくがぶつかったのは鬼のように恐い顔して腰に手を 当てているお姉ちゃんだった。 「まさか逃げたりするつもりじゃないわよね?」 ボキボキと指を鳴らしながらお姉ちゃんは立ちふさがる。 「だって……」 「ここから先、一歩でも進んだらあんたが男だってこと  今すぐバラすわよ」 「そんなことしないでっ」 「だったらさっさと戻って服を脱ぎなさいよ」 ぼくはしぶしぶ、脱衣場まで戻るしかなかった。 お姉ちゃん、後先考えずに行動するから本当に バラすかも知れない。そんなことして怒られるのは お姉ちゃんも一緒なのに。 脱衣場に戻るとお姉ちゃんはさっさと服を脱ぎだした。 でもぼくはお姉ちゃんに背中を向けてじっとしている。 「何してんのよ」 「だって…」 「だってじゃないわよ。早く脱ぎなさいよ」 お姉ちゃんは上半身スリップ姿でぼくの服を つかんでくる。 「やめてよ、自分で脱ぐよぉ」 ぼくはお姉ちゃんの手を振り払って後ずさりした。 お姉ちゃんはぼくに裸を見られても恥ずかしくないの? ぼくは見られるのヤだよ……。 少しでも恥ずかしいのをまぎらわそうと、ぼくは目をつぶって 服のボタンを外した。目をつぶったまま、シャツと半ズボンも…。 あっ。 ぼくはシャツを脱いだ時になって初めて気がついた。 ぼく、男のパンツをはいてるんじゃないか。 前を隠す前にこんなの見られたらすぐにわかっちゃう。 「ねえっ…、お姉ちゃん…」 ぼくはお姉ちゃんに背中を向けたまま声をかけた。 「何よ? あんたまだぐずぐずしてるわけ?」 「だって、ぼくブリーフをはいてるんだよ。  ズボン脱げないよぉ」 困った声で言いながらも、本当はほっとしていた。 だって、これなら入らずに済みそうだもん。 「うーん、そうねえ…。気がつかなかったなあ」 お姉ちゃんも「しまった」と言ったふうに考える。 「でしょ、でしょっ」 ぼくは嬉しくなって思わず振り向いた。 「わっ!」 またぼくは急いで前を向いた。 お、お…お姉ちゃん……真っ裸…!! あ……あそこも…見ちゃった……。 前、お姉ちゃんが言ってた通り、本当に少しだけど生えてる…。 気がつくとぼくのちんちんは、びっくりするぐらい力いっぱい 大きくなっていた。こんなの見られたら大変だ。 あわててぼくは両手で前を押さえた。 「そうだっ」 「うわあっ!」 突然、お姉ちゃんが大きな声を出すから、 反射的に身構えてしまった。 「なに、ひとりでびびってるのよ。バッカじゃないの」 「お姉ちゃんがいきなり大声出すからだよ」 後ろを向かずにぼくは言い返した。 「口答えしないのっ。  それよりあたし、いいこと思いついちゃった♪」 ぎくっ。 お姉ちゃんの思いつく「いいこと」なんて、 いいことだった試しがない。 どうせズボンをはいたまま入れとか、家に戻ってお姉ちゃんの 女用のパンツをはいて来いとか言うんだ。 「ぼく、やだよっ」 「聞きもしないで何言ってんのよ」 聞かなくてもわかるし、聞いたからって逆らえるわけでも ないのに。でもそれを口に出して言えばお姉ちゃんの必殺の パンチが飛んでくるんだ。ぼくってすごくみじめだよ…。 「あそこにトイレがあるでしょ。あそこで脱いで来なさいよ」 あれ、めずらしくずいぶんまともなアイデアだ。 変なことさせられないでよかった。 …と、ホッとしてる場合じゃないぞっ。結局、女湯に入らなきゃ いけないんだ……。 とほほ……。多分、日本中で一番不幸な小学生は ぼくだよ、きっと。 逆らっても無駄だとわかっているぼくは、前を隠すための タオルを手に持って、とぼとぼとトイレに向かった。 **未甘** 1分ぐらいして倫悟はやっと戻ってきた。 右手にタオルを持って前を隠し、左手には丸めたズボンの中に パンツを隠している。 やっだー、すっごくまぬけなかっこー。 おかしかったけど、あまり笑うとまたぐずぐず言って 面倒だからあたしはがまんした。あたしってばお姉さんよね~。 「ズボンとかロッカーに入れるからそれ貸しなさいよ」 「はぁい…」 倫悟はあたしから目をそらしてズボンを渡した。 あたしはとっくに真っ裸になっちゃってるわ。 何をそんなに恥ずかしがってるのよ、この子。 ふふっ、大人っぽいボディラインのあたしが、そんなに 魅力的かしら? きっと周りのみんなも、あたしが中学生じゃなくて まだ小学生だって知ったらびっくりするだろうなぁ。 あたしは服を全部ロッカーに放り込んでカギをかけた。 「いい? カギはあたしが持っておくから途中で  こっそり帰ろうなんて考えても無駄だからね」 残念そうに倫悟はうなだれる。 あたしの作戦はカンペキなんだから。 「それじゃ浴場へレッツ・ゴオゥ!」 あたしは大はしゃぎで、倫悟はこの世の終わりが来たみたいに 嫌そうな顔をして、湯気でくもったガラス戸を開けた。 浴場に入ってすぐ、倫悟はいきなり湯船に入ろうとした。 「ちょっと倫悟。まさかあんた、体も洗わずにお風呂に  入る気じゃないでしょうね?」 倫悟は入りかけたつま先をびくっと引っ込めて、 こっちに背中を向けたまま言った。 「だってぼく、いつもすぐ入るんだもん」 「やだ、うっそー、汚ーい。  普通、頭と体を洗ってから入るもんでしょお」 「い、いいじゃないっ。そんなのぼくの勝手じゃないか」 倫悟はかまわず足を湯船に沈めようとする。 「待ちなさい!」 あたしは倫悟の手をつかんで引っ張った。 「うわっ!? あっ、あっ……あ…」 バランスを崩した倫悟は、そのままステンと転んで しりもちをついた。 「わぁーっ!」 あわてて前をタオルで隠す倫悟。ちんちんにはまだ、 あたしが今朝書いたまぬけな落書きがくっきり残っていた。 ぷっ…、ヘンなのぉ。 「な、な、何するんだよお!」 座り込んだ倫悟はこっちを振り向いて怒鳴る。 だけどあたしのハダカを目にするとすぐに前を向いて、 体操座りみたいにうずくまる。 「ちゃんと体を洗うまで入らせないわよ。  勝手に汚い体で入ったらそのタオル、取り上げるからね」 「…………」 「返事は?」 「ぅ……わかったよぉ…」 倫悟は不満そうに返事をした。どうも気に入らないわね。 ちょっと罰を与えようかしら。 あたしは倫悟の真後ろにしゃがみこんでささやいた。 「あんた、今あたしのハダカ見てボッキしてるでしょ」 「えっ……!  ボ…ボッキって………なに…?」 顔を赤くしてドギマギしながら倫悟は言った。 前を押さえるタオルに力が入ってるところから、 そうとう大きくなってるのがわかる。 「ちんちんが立つことよ」 「た、立ってないよっ」 「あたしのハダカ見て興奮するなんてあんた変態よねぇ」 あたしは白い目で見てやった。黙り込んで何も言えない倫悟。 「兄弟のハダカ見て興奮なんかしちゃいけないのよ。  こういうのキンシンソウカンって言うんだから」 あたしは最近覚えた難しい言葉を使った。ふふん、物知りでしょ。 「ぼ…ぼく……別に…」 何とか言い返そうとするけど、すぐにあたしは続ける。 「倫悟ってホント、スケベよね。サイテー。  変態の変人の変質者だわ。  こんなの警察に知られたらタイホされてチョウエキ100年の  刑になるんだから。刑務所から出てきたらあんた、  よぼよぼのおじーさんよ」 「う………うう…うっ…………ひどい……あんまりだ…」 な、何、涙声になってんのよ。 「ひどいよ……ああ~ん!」 ちょっとからかっただけなのに倫悟は泣き出してしまった。 幼稚園の子供みたいに足を投げ出して、両手で涙を押さえながら 泣いている。 「何も泣くことないでしょっ。  ほら、みんな見てるよっ」 それでもかまわず倫悟は泣くのをやめない。むしろ泣き声は 大きくなっている。 やだあ、みんなこっち見てるよ~。まずいなあ…。 「倫悟っ、さっさと泣きやまないと後でひどいよ!」 「だって、だって…ひっく………ひっく…」 「泣くのをやめたら許してあげるけど、まだ泣くんだったら  容赦しないわよ」 あたしは手をグーにして倫悟の目の前でちらつかせた。 「わかったからやめてよぉ………うっく…」 倫悟には優しい言葉をかけるよりも、脅しをかける方が よっぽど効き目があるんだ。 とりあえずおとなしくなった倫悟を連れて、洗い場の方へ行った。 うひゃー。 洗い場はめちゃくちゃ混んでいた。今が一番人の多い時間帯 だからしょうがないか。それにこの辺でお風呂屋さんって ここしかないし。 えーと、空いてる場所は……と。 あった。 ちょうどふたり分、空いている所を見つけたあたしは そこに座る。 「あれ? 古津さん?」 へっ? 「あ、やっぱり古津さんだー」 隣に座っていた、あたしと同じくらいの年の女の子が なれなれしくあたしに話しかけてくる。 誰よ、この子? 最初、わけがわからずきょとんとしていたあたしだけど、 それが誰なのか気づいたとき、思わず「あっ」と声を上げて しまった。 大変、大変! 未甘ちゃん大ピンチ! 3ページ **倫悟** さ……さくらちゃんっ!! お姉ちゃんの向こう側に座っている子、さくらちゃんだっ。 やばい、やばいよおっ…。 ぼくはお姉ちゃんの隣に座ったまま、すぐに首を反対側に向けて 顔をそらした。 「古津さん、わからないの? 私よ、富良羽。  ほら、今日学校で古津君と話してたでしょ?」 「あ…、ああー、ああ。うん、富良羽さんね」 やっとお姉ちゃんも気づいたみたいだ。 まさか、お姉ちゃん、ぼくのことバラしたりしないよね…? ぼくはどきどきしながらふたりの話に耳を傾ける。 「古津さんもよくここに来るの?  すっごい偶然よね」 「そ、そぉーね…。あははは…」 何を笑ってんだろ? それより早く逃げなきゃまずいよぉ。 「ね、今日何を買ったの?」 「え??」 さくらちゃんの言ってることにお姉ちゃんは「?」となる。 ぼくもだった。いったい何のこと言ってるんだろう。 「今日、古津君やお母さんとお買い物に行ったんでしょう」 「あたしが?」 わけがわからない、といった感じのお姉ちゃん。 だけど、ぼくはピンときた。 ほら、お姉ちゃんが昼間ついたウソのことじゃないか。 ぼくはひじでお姉ちゃんの背中をつついて教える。 「なに? くすぐったいじゃないの、倫悟」 「えっ!!」 さくらちゃんのびっくりした声が周りに響く。 お姉ちゃんのバカ! ぼくの背中は、まるで水をバシャリとかけられたみたいに 冷たくなる。 「倫悟って…、まさか古津君がいるの!?  あれ……、もしかしてそこにいる子?」 ギクゥッ!! 「え……あ、あ、違うの。リンゴじゃなくて……リンコ…、  そう、リンコっていったのよ」 「リンコ?」 お姉ちゃんの苦しまぎれの嘘に、さくらちゃんは納得が いかない様子で聞き返している。 ぼくはもう、肩をすくめておどおどしているだけ。 神様、仏様、どうかバレませんように……! 「そう、そーなのよ。親戚の子がウチに泊まりに来ててねー…」 「なんだか珍しい名前ね、リンコって。  それにその子、学校はどうしたの?」 うわー、さすがさくらちゃんだ。鋭いつっこみを入れてくる。 「え、えとぉ、それは、それはぁ…」 こういう時にうまいことがさっと言えないお姉ちゃんは しどろもどろになって言葉につまる。 「ねえ、もしかして……。その子、倫…」 こうなったらイチかバチかっ。 「あのっ……私、本当はスズコっていうの。鈴木さんの”鈴”に  子供の”子”で”鈴子”って書くの。  でも未甘ちゃんは頭が悪いからリンコって間違えて読んじゃって、  今でもずっと私のことそう呼ぶの」 ぼくは背中を向けたまま、腹話術みたいに裏返った高い声を 出して一気にしゃべった。 「誰が頭が悪いってえ?」 「イタタタタッ!!」 お姉ちゃんがぼくのお尻を思いっ切りつねった。 「痛いよ、痛ぁい!」 「倫悟君の声じゃない!」 しまった! 「そ、そーお? イトコだからよく似てるんじゃない?」 「そうなの?」 「あ、あったりまえじゃない。だいたい、女湯なのになんで  倫悟がいるのよ。倫悟なら男湯の方にちゃんといるわ」 言いながらお姉ちゃんの手はまだぼくのお尻をぐいぐい つねっている。 声を出すに出せず、僕は涙目で必死にこらえる。 ううぅ、お母さぁん…! 「でも学校はどうしたの? まだ夏休みには入ってないのに」 「それは……それはぁ…」 うう、どう言ってごまかせばいいんだ。 うーん、うーん、いい方法は…………。 ………。 …………。 ……そうだっ! 完璧な言い訳がある!! 「あのね。実は私、沖縄に住んでいるの。  沖縄って夏休みが始まる日が他の学校より少し早いの。  その代わり、冬休みが短いけれど」 ぼくは背中を向けたまま、ヘンテコな裏声で さくらちゃんに言った。 どうだい。ぼくもなかなか上手にウソが言えるでしょ? …といっても、この前TVでやってたのを たまたま思い出しただけなんだけど。 「でも、全然日焼けしてないのね?」 「……………」 「……………」 そ、そんなあ~。せっかく思いついた名案だったのに…。 「にゅ……入院してたのよっ!」 お姉ちゃんが弾かれたように叫んだ。 でも、そんなわざとらしいこと言ったって、 今さらこんなに鋭いさくらちゃんを ごまかせるわけないよ…。 「なあんだ。そうだったの。  それじゃあ色白でも変じゃないわよね」 うそぉー!? 「それじゃ、遅くなるとママが心配するから  もう帰るね」 そう言うとさくらちゃんは体を洗い流して すたすたと浴場から出ていった。 「な……」 「よ、よかったね……? お姉ちゃん」 「うん……まあ…」 意外とさくらちゃんってわからないなあ…。 **未甘** 富良羽さんが帰っちゃった後は緊張が解けて、 あたしはすっかりリラックスしていた。 ごしごしと体を洗うのはすっごく気持ちいい。 うん、未甘ちゃん自慢のすべすべお肌。 倫悟もこんなにかわいいお姉ちゃんがいてきっと 鼻が高…………。 いない!? 気がつくと隣にいたはずの倫悟がいつの間にか 消えていなくなっていた。 逃げたわねぇ……バカ倫悟! でもロッカーのカギはあたしの手首についてるんだし ここから逃げることはできないはず。 まだ無駄な抵抗をするなんて、ほんっとにあきらめの悪い子ね。 そーゆー子にはお仕置きが必要よね。 こんな場所で隠れたって、狭いんだからすぐにわかるのに。 バカなんだから。 あたしは、捕まえたらどんな罰を与えてやろうかしらと あれこれ考えながら倫悟を探し歩く。 ここかな。 あれ、じゃあここかな。 ぜーったいここだっ。 うーん、おっかしーなあ…。 じゃあもうあそこしか見てない所ってないからきっと…。 あれぇ……。 いったいどこに隠れたっていうのよ! 倫悟は全然見つからなかった。 10分ぐらい、浴場も、脱衣場もぜーんぶ残らず探したのに。 まさか裸で帰ったんじゃあ…。 そんなわけないか。あの子にそんな勇気があると思えないし。 まさかお風呂屋さんに言ったんじゃ……! ううん、それもあり得ないわね。 そんなことしたら後で必殺の鬼殺しキック(自分で名付けた)を いやというほど受けなきゃいけないってわかってるだろうし。 第一、そんなことしてたらお風呂屋さんが今頃大騒ぎしてるはずよ。 でも、それならいったいどこに倫悟は……。 あたしが、もう一度浴場をよく見てみようと、 脱衣場を出かけたときのことだった。 「ねえ、誰か入ってるの? もう10分も経ってるわよ」 高校生ぐらいのお姉さんがトイレの前でドアをノックして いるのが目に入った。 ドアの取手の所は「赤」になっていて誰かが入ってる。 でもそのお姉さんがいくら呼びかけても、全然中から返事がない。 あたしはピーンとくるものがあった。 「ちょっとすみません」 お姉さんの前にするりと割り込んでドアをドンドン叩いた。 「倫悟、そこにいるんでしょ! わかってるのよ」 返事はしないけれど中に誰かがいる気配がする。 その気配が倫悟のものだということがあたしにはわかる。 もう一度、さっきより強くドアを叩いた。 「開けなさい、倫悟」 だけど開けようとする気配はない。割としぶといわね。 もう一回ドアを叩こうと手を振り上げたときだった。 ちゃ……。 カギが「赤」から「青」に代わって、小さな隙間が空いた。 その中からこっちを見るおどおどした倫悟の目。 無理やりドアを開いて、あたしは倫悟の手を引っ張り出した。 「ごめんなさい。どーぞ、使って下さい」 変な目であたし達を見ているお姉さんを無視して、 あたしは倫悟を連れて浴場に戻った。 浴場の片すみに連れ戻された倫悟は、びくびくしながら目を そらしている。 「わかってるわね?」 怒っているのか笑っているのか自分でもわからないような 恐い笑顔をにっこり浮かべて言った。 4ページ **倫悟** ぼくは泡がいっぱい出てくるお風呂の前に立たされていた。 いったいお姉ちゃんはどうするつもりなんだろう。 「入んなさい」 ジロっとにらみながらあごで指した。嫌だったけれど、 機嫌の悪いお姉ちゃんに逆らったら何をされるか わかったものじゃない。 ぼくはしぶしぶ泡風呂に足を入れた。 このお風呂は、壁にジェットなんとかっていうあぶくを 噴き出す穴があって、底のタイルも座りやすいように、 うねっと曲がった形をしている。 とにかく洗剤でも入ってるんじゃないかって思うくらい 泡だらけで、お湯は真っ白だった。 「そこに座るの」 お姉ちゃんは言いながら自分も泡の出てくる場所に腰かけた。 同じように僕も隣に座る。 「ここなら誰にもわからないでしょ」 何のことを言っているのかわからない。 「どういうこと…?」 「決まってんでしょ。あたしから逃げた罰をあげるのよ」 「えぇー……」 「なに? 文句あるの?」 すっごく恐い顔でギロリとにらまれたら、ぼくはだまって しまうしかない。 怒っている時のお姉ちゃんを、もっと怒らせたりしたら 本当に殺されるよ。 「ここならアワがいっぱいだからマスターベーションをしても  わからないでしょ。  やんなさい」 「う、うそでしょっ!?  だ、だだ、だってみんな見てる場所でそんなのできないよお」 「あんたがちんちんをこすってることなんて、誰にもわかりゃ  しないわよ」 「嫌だよ。ぼく、絶対に嫌だからね」 ぼくが立ち上がろうとすると、お姉ちゃんはぼくの足に自分の足を 引っかけた。 バシャンっ。 ぼくはバランスをくずして後ろに転んでしまった。 「げほっ、げほっ…ごほっ……」 転んだひょうしにお湯を少し飲んじゃって、のどがむせる。 「ひ、ひどいよ…げほんっ、えほっ…」 「逃げようとするからでしょ」 ぼくを転かしたくせにそっぽを向いている。 わかったよ、お姉ちゃんがそこまでいじわるするんだったら こっちだって…。 ぼくは泡の出ている所に座り直した。お姉ちゃんは満足そうに、 にやにやしている。 だけどぼくは、座り直したきり何もしなかった。 最初はぼくがちんちんをにぎっていると思っていたお姉ちゃんも、 だんだん怪しみだしてくる。 「ちょっと、あんた。ちゃんとやってるの」 「やってないよ」 ぼくは平然と答えた。…つもりだったけれど、恐くて声が 少し震えた。 「ふざけてるわけ?」 「ぼく……お風呂屋さんが閉まるまで、ここでずっとこうして  いるから。そしたら変なことさせられずに済むもん」 「そんなチャチなマネが通用するとでも思ってるの」 お姉ちゃんの脅かす時の声は、まるで学校の近くに 時々いる悪い中学生達みたいに恐かった。 いくら強がって見せても歯がカチカチなりそうなくらいだよ。 でも。ここで負けちゃダメなんだ。 お風呂の中で、しかも女湯で、みんなが見てる中で、 そんな変なことしたくない。 そうだよ、先生だって言ってた。 誰が相手でも、したくないことをさせられそうになったときは、 はっきり「嫌だ」って言わなきゃいけないって。 「ぼ、ぼ…ぼく……ぼくは…、何でもお姉ちゃんの言いなりに  なったりしないからねっ」 それだけ言うのが精いっぱいだった。後は横にいるお姉ちゃんと 目を合わせないように、じっと前を向いているしかない。 お姉ちゃんの目を見たら、これ以上は逆らえないもの。 ずっと心臓がドキドキしっぱなしだ。 「いい根性してるじゃない」 「い…嫌なものは……、嫌だもん。  先生だって……言ってたじゃないかぁ」 「へえ…。じゃあ、どうしてもやらないって言うのね」 「そうだよ。た、叩かれてもぼく、やらないからねっ…!」 わぁ……もうダメだ…。 こんなこと言っちゃったら半殺しの目にあわされる。 や、やっぱり謝ろうかな………。 すごく嫌だけど、マスターベーションをするのと痛い思いを するのとじゃ、痛い方がやっぱり…やだよぉ…。 「じゃあやらなくてもいいわよ」 えっ………? 今、お姉ちゃん…。 「その代わり、あたしがするから」 「え!?」 言ったとたん、お姉ちゃんはぼくのちんちんをぎゅっとつかんだ。 「や、やめてよっ。何すんだよ!」 「あたしが代わりにしごくの」 そう言って、前にぼくがした時みたいに、お姉ちゃんは ちんちんをにぎりしめる。 「嫌だよっ、エッチっ!」 逃げようとしたけれど、もう片方の手で耳をつねられて しまった。 「いたたたたっ!!」 「じっとしてなさい。  ちょっとでも動いたらお風呂に顔をつけるわよ」 ぼくがひるんだスキをついて、耳から手を離して髪の毛を つかみ直す。それをぐいっと引っ張ってぼくの顔を、 お湯のあぶくがはねてかかるところまで近づけた。 もうぼくは逃げようとしたりできなかった。 4年生の時に、お姉ちゃんがふざけて家のお風呂でぼくの 頭をお湯に沈めたことがあったんだ。 お姉ちゃんは冗談のつもりだったんだけど、 ぼくはあのおぼれかけた時、本当に死ぬかと思った。 その時の怖さを一気に思い出してしまったんだ。 お姉ちゃんは、ぼくが逆らう気を無くしたことがわかると、 ごしごしとちんちんをこすり始めた。 **未甘** 倫悟のちんちんを触るのは別に初めてじゃなかった。 なのになんだか今はすごくドキドキする。 さいしょはキノコみたいに、ぶにょぶにょで柔らかかったくせに ちょっとこすっただけでウソみたいに固くて太くなった。 倫悟の髪の毛をつかんでいた手を離してやったけど、 もう逃げようとしたりはしなかった。 さっきのおどしがきいたのかしら? でも、それとはまた違う様子にも見える。 「な、なに…あんた。  まさか感じてるわけ……?」 「や……やめ…て………。  ほんと…お願いだから………。  早くやめてくれないと……で、出ちゃうよ……!」 もう泣きそうな顔をしながら、ハッハッと苦しそうな 声を出している。 どうしよう…。 ちょっとやりすぎかな? もっと、こう……半分嫌がって、半分は嬉しがると思ってたのに、 冗談抜きで嫌がってる。本気で嫌がられたら面白くないじゃない。 そう言えば―― …よく考えたら、この子が射精して精子があたしの体の中に 入ったら、あたし妊娠しちゃうじゃない!! 冗談じゃないわっ。 こすっていた手を急いで離そうとした時だった。 「あ…っ………!」 倫悟が薄く目を閉じて、体を震わせながら変な声を上げた。 ビクン! あたしの手の中で、大きくなった倫悟のちんちんが 激しく揺れた。 一瞬、何が起こったのかわからなくなって、思わず手を離すのが 遅れてしまった。 それが失敗だった。 あたしの手に変な感じのするものがひっついてくる。 「やっ、やだあーっ!」 立ち上がって、お湯から上げた手を見てみたら、ぬるぬるする 工作の時間に使うのりみたいな何かがくっついている。 これ、倫悟の精子じゃないっ! 「いやっ、汚い!!」 あわててタイルの壁になすりつけた後、洗い場へ飛んでいって 蛇口を思いっ切りひねって水を全開にした。 滝みたいにジャージャー流れる水で、あたしは必死に 洗い流した。 うそでしょ、うそでしょ、うそでしょっ…? あ、あたし……妊娠しちゃったの……? 家に帰ってベッドに入っても、あたしは全然寝られなかった。 どうしよう……。 どうしよう……。 赤ちゃんができたりしたらあたし…。 おかーさんやおとーさんに叱られて、先生にも叱られる。 それにあたし、倫悟と結婚しなくちゃいけないの? 学校に赤ちゃんを連れってってもいいのかな? もしかしたら学校をやめさせられるかも知れない。 子供のくせに赤ちゃん生んだら、警察に捕まるかも知れない。 どうしよう、どうしよう。 恐い………、恐い………。 いつの間にか涙が出てきてた。 泣かないように頑張っても、全然涙は止まらなかった。 神様、ごめんなさい。もう二度とこんなことしません。 絶対にしないって約束します。 だから、赤ちゃんができないようにして下さい。 お願いします、神様。 次の日、あたしは給食の後の休み時間に保健室の前に来ていた。 中に入ろうかどうか迷った。 昨日、思い切って保健の植野先生に相談しようって決めたんだ。 植野先生、若くて美人で優しいから人気がある先生なの。 保健の先生だから色々知ってるだろうし。 だけど、せっかく相談しに来たのに、保健室へ遊びに来て いる他の子の話し声が中から聞こえる。 赤ちゃんができたことを植野先生以外の子に聞かれたくない。 どうしようかとずっと迷っていたら、あっと言う間に休み時間が 終わっちゃって予鈴が鳴った。 ガラガラガラ。 保健室のドアが開いた。 あたしはビクッとなってドアから少し離れた。 「はいはい、もうチャイムは鳴ったんだから戻りなさい」 「今のまだ予鈴でしょー?」 「もうちょっといたっていいじゃん」 「だーめ。そんなこと言ってるから授業に遅れるのよ。  はい、みんな戻る」 「はぁい」 「また放課後遊びに来るねっ」 みんなが散り散りに教室に戻って行く。 今がチャンスよ。 でも、心の中ではそう思っていても、声がなかなかでなかった。 やっぱり、言うのやめとこうかな。植野先生、言いふらすかも 知れないし……。 「未甘さん、何をしてるの?  もうとっくに予鈴は鳴ったわよ」 あたしに気づいた先生は、向こうから声をかけてきた。 どうしよう。でも、言うしか……。 「あの…先生……」 「なぁに? 何か用があって来たの」 「うん……」 5ページ **倫悟** ぼくは昨日も今日も、お姉ちゃんと口をきいていなかった。 頭の中では、昨日からずっと同じ声がしている。 お姉ちゃんの「いやっ、汚い!!」って言葉。 ぼくは昨日ずっと泣きっぱなしだった。 女湯でマスターベーションなんかしてしまったことも いやだったけれど、それよりも、もっといやだったのが お姉ちゃんのあの言葉。 なんだよ、ひどいよ、あんまりだよ。 「汚い」だなんて…。自分でやったくせに……。 あまり何回も同じことを考えていると、鼻がつぅんとしてきて 涙がじわっとなるから、他のことを考えるようにしてる。 今日も図書館にいるけれど、開いている本はシオリを はさんであるページから全然進んでいない。 「り・ん・ご・君っ」 後ろから誰かが声をかけてきた。 誰だろう、と振り向くとそこには…。 「さくらちゃんっ」 「ねえねえ、何読んでるの?」 そう言ってさくらちゃんは本をのぞきこんでくる。 昨日、お風呂屋さんでかいだのと同じ匂いのシャンプーが、 さらさらの髪からやってくる。 きっと今、ぼくのほっぺた赤くなってる…。 さくらちゃんに笑われないかな。 「え、えとね、『無人島に生きる16人』って本だよ。  ずっと昔の話で、日本の船が太平洋で嵐にあって遭難するんだ。  船は粉みじんに壊れちゃって、ほんの少し残った食料や  道具だけで、すっごく小さな島にたどりつくんだ。  そこで船員の16人は助けが来るまでいろんな工夫をして  暮らすんだ。これ、本当にあった話なんだよ」 「ふぅん…。  倫悟君ってそういうの好きなんだ」 「へ…変かな…?」 「ううん。意外って思っただけ。  倫悟君ってもっと女の子っぽい本が好きなのかと  思ってたから。だって…」 「だって?」 ぼくはわけもなく、急に胸がドキドキしはじめた。 さくらちゃんが隣にいるからってだけじゃないような気がする。 何かすごくいやな予感がするよ。 「だって…」 さくらちゃんは両手で輪っかを作って、手を丸めてぼくの耳に 当てた。そしてそっと内緒話をするようにささやいた。 「倫悟君、女の子のふりして女湯に入ったりするんだもん」 !! ぼく、初めて心臓が止まりそうになる、って気持ちを味わった。 ドクドクドクドクドクドクドク! このままだとどうかしちゃうんじゃないかっていうぐらい、 心臓はデタラメに速くなる。 「あ………ぅ………」 もうダメだ。 本当の本当にダメだ。 警察に連れて行かれて牢屋に入れられる。 もしかしたら死刑になるかもしれない……!! お姉ちゃんに叩かれても「いやだ」って言って 女湯なんかに入らなきゃよかった! ぼくはぎゅっと目をつぶって、同じくらい強く手をぎゅっと にぎりしめた。 「大丈夫、安心して。  私、誰にも言ったりしないから」 ぼくはつぶっていた目をパッと開いた。 「本当? 本当に?」 「うん。  だって倫悟君、お姉ちゃんに無理やり入らされたんでしょ?」 「えっ…。どうしてそれ知ってるの?」 「じゃなきゃ倫悟君が女湯なんかに入ったりするわけないもん。  倫悟君、いっつもお姉ちゃんにひどいことされてるじゃない」 良かったぁ…。 嫌われるどころか、さくらちゃん、ぼくのこと よくわかってくれてた。 ほっとしたら急に大胆になってきた。 「そうなんだ。お姉ちゃんってばひどいんだよ。  ぼくに無茶なことばっかり言って、できなかったら  叩いたり蹴ったりするんだ」 「ひっどーい。そんなのひどいわよ」 「でしょ、そう思うよね」 「ね、ところで倫悟君」 「なに?」 「昨日、私の裸見たでしょ」 「っ………!!」 さくらちゃんは怒ってるふうじゃなかったけれど、 ぼくはすごく恐くなった。 そう…確かに見ちゃった。でもちらっとだけしか…。 「男の子に裸を見られちゃったら私、もうお嫁に行けないなぁ」 「あの、その、ぼく…」 「倫悟君に責任取ってもらおうかなぁ」 「セ、セキニン??」 「そ。  倫悟君のお嫁さんにしてもらおっと…」 「そんなの、あの……、困るよ。そんなの困るよ……」 ぼくは真っ赤な顔から真っ青になっていた。 結婚だなんて、そんなことしたらお父さんやお母さんに 怒られちゃうよ。 「ふっふふふ。  う・そ」 「えっ……………?」 「もう、やだァ。倫悟君ったら本気にするんだからー、もぉ」 「な、なんだ、うそだったの。  おどかさないでよぉ、さくらちゃんのイジワルっ」 「ごめーん」 さくらちゃんは両手を合わせて、ぺろっとしたを出した。 なんか、一気にさくらちゃんと仲良しになれちゃった! ぼくね、そのまま昼休みの間中、さくらちゃんと話をして、 今日の放課後に遊ぶ約束までしたんだ。 **植野** とりあえず、私は未甘さんを保健室に入れることにした。 いつも元気だけが取り柄のような子が、今日はいつになく 静かだった。何かを思い詰めているように見える。 私はドアを閉めると、椅子を勧めて、自分も職員用の肘掛け椅子に 腰を下ろした。 「どうしたの。今日は元気がないのね」 未甘さんは一見、保健室とは無縁に見える生徒だった。 保健室へ遊びに来る子はだいたいおとなしい感じの生徒が多く、 外よりは室内で遊ぶのが好きな子が大半を占めていた。 未甘さんが保健室へ遊びに来ることはほとんどなく、 ここへ来るときは、大抵遊んでいて怪我をしたか、 あるいは怪我をさせた時ぐらいだった。 とても活発で目立つ子だったから私もすぐに名前を覚えた。 「何か悩み事でもあるの?」 「………」 「もし、そうなのなら話してみて」 「………」 普段はしょっちゅう男の子達とケンカをして、その騒ぎ声が 保健室まで聞こえてくることもある子とは思えないほど、 今日の未甘さんは妙にしおらしかった。 「デビル」だとか「帝王」だとかいった、女の子らしくない あだ名をつけられている子とは思えないほど、貝のように口を 閉ざしている。 さっきから未甘さんは黙ったまま、膝の上に置いている手を 見つめているばかりだった。 キーン、コーン、カーン、コーン… 本鈴が鳴り始めた。 未甘さんは立ち上がろうとした。それを私は彼女の肩に軽く手を 当てて座るように指示する。 「え……、でも…」 「いいの。5時間目は授業に出なくてもいいわ。  私から担任の先生に連絡するから」 私はそう言って備え付けのインターホンを取って、内線を職員室に つないだ。 「ええ、そう言うわけで5時間目は保健室で授業を受けるという  形で通しておいて下さい。  …はい………はい…、ええ、わかりました。  それではよろしくお願いします」 私が受話器を置くと未甘さんは不安そうに言った。 「先生、あたし授業に出なくていいの?」 「大丈夫。欠席になったりしないから、心配しなくていいのよ」 「でも、みんなが変に思う……」 「担任の先生が、『未甘さんは具合が悪くなったから保健室で  休んでいる』って、みんなに伝えてくれているから、  そんなこと気にしないの」 「………」 「さっ、聞かせて。  何か言いたいことがあって来たんでしょう?」 それでも未甘さんはまだもじもじとしている。 「誰にも………言わない?」 「もちろんよ」 「他の子にも、他の先生にも?」 「ええ、決して言ったりしないわ。秘密は絶対に守るから。  先生、口はとっても固いのよ」 ようやく未甘さんは重い口を開いてくれた。 話の全部を聞いたとき、さすがに私もショックは 隠し切れなかった。 弟の倫悟君にいじわるするために彼を女湯に入れたこと。 その中で、湯船で未甘さんが倫悟君の性器を勃起させて 手淫をしたこと。 かなりおてんばな子だとは思っていたけれど、 まさかそんなことをするなんて……。 初めは嘘か冗談とばかり思ったけれど、落ち込みようからして 本当に悩んでいる様子。 「じゃあ、お風呂の中で倫悟君のおちんちんをにぎって  射精させただけなのね?」 私はなるべく優しく話しかけるように努めた。 けれど未甘さんは始終、いたずらが見つかった子のように 口数は少な目で、小さくうなずいてばかりだった。 「大丈夫よ、安心して。男の子の精子ってとっても熱に  弱いの。だからお湯の中に出てもほとんどがあっと言う間に  死んじゃうし、未甘さんもすぐにお風呂から出たんでしょ?  なら心配いらないわ」 「本当? 本当に本当なの?」 「先生が嘘を言うように見える?」 未甘さんはぶるぶると首を横に振った。 「良かったぁ…。  私、すごく不安だったの。赤ちゃんができたらどうしようって。  倫悟と結婚しなきゃいけないのかなって」 「でもね…」 「えっ」 ほっとしたのも束の間、未甘さんはまた不安そうな顔になる。 「ううん、未甘さんが妊娠したりするようなことはないわ。  だけどね、未甘さんがしたことはあまり褒められるような  ことじゃないわよね? それはわかるでしょ?」 口をつぐんで、またうつむきかげんになり始めた。 「どうしてそんなことしたのかしら?  男の子の体にちょっと興味があったからなのかな?」 未甘さんは、まただんまりになってしまった。 私は笑顔と明るい声を保ったまま続けた。 「先生、怒ってなんかないのよ。  ただ、未甘さんがどうしてそんなことしちゃったのかなぁ、  って思っただけ。  ……前に倫悟君にひどいことされた時の仕返しかな?」 この問いには大きく横にかぶりを振って答えた。 「私………」 「ん、なあに?」 「私、なんか……すごく…、倫悟が憎たらしくて。  それで……」 「どうして? いつもすごく仲がいいじゃない」 「あたしと倫悟が?」 未甘さんは意外そうに顔を上げた。 「ええ。  毎日一緒に登校や下校をしてるし、倫悟君がいじめられてたら  未甘さんはいつも助けてあげてるじゃない」 「…………」 「先生、兄弟がいないからうらやましいなぁ、って思ってるのよ」 「…………」 何も答えなかったけれど、未甘さんは決まり悪そうに、 はにかんでいる。 「先生………」 「うん?」 「倫悟、怒ってるかな…?」 「そうねえ……。  未甘さんはどう思う?」 「きっとすごく怒ってるに決まってる。  だってあたし達、昨日から全然話をしてないもん」 「そう思うんだったら、ちゃんとごめんなさいって  言った方がいいんじゃないかな?」 「うん………」 「本当に心から謝れば許してくれるわよ。  もう二度としないって」 「しないわ。あんなに恐い思いしたの、生まれて初めてだもん」 「ふふふ…」 未甘さんは今回のいたずら(にしてはちょっと度が過ぎて いたけれど)に心底懲りた様子だった。 「さてっと。  5時間目が終わるまでここでゆっくりしていきなさい」 「えっ、でもずる休みになっちゃう」 「あら、それなら算数ドリルでもやる?」 いたずらっぽく私が引き出しからドリルを出そうとすると、 未甘さんはオーバーに首を横に振ってみせた。 6ページ **未甘** 5時間目が終わった後、あたしは教室に戻った。 みんながちらっとこっちを見たり、男子がちょっかいを出して 来たりしたけど、あたしは気にせずいつも通りにしていた。 倫悟に謝ろうと思ったけど、みんな見てる前じゃかっこ悪くて いやだから、6時間目が終わった後にこっそり謝ることに決めた。 キーンコーンカーンコーン。 「起立、礼、さようなら」 みんなが一斉に挨拶をして6時間目が終わった。 あたしは倫悟の席まで行って声をかけた。 「ねえ、倫悟…」 「ぼ、ぼく用事があるんだ。先に帰る」 あたしと目を合わせないようにして、そそくさと教室から 出て行こうとする。 何よ、あれ! 人がせっかく謝ってあげようっていうのに! 腹が立ったあたしは倫悟を追いかけた。 「待ちなさいよ」 教室の入り口で倫悟の手をぎゅっとつかんだ。 「離してよっ」 「あたし話があるから呼んだのよ」 「やめなさいよ、古津さん」 突然、廊下からそう言ってきたのは富良羽さんだった。 なんであの子があたしの教室の前に来てるのよ。 それになんで「やめなさい」なんて言われなきゃいけないのよ。 「何よ、あんた」 「倫悟君、いやがってるじゃない」 「だから何よ? これはあたしと倫悟の問題よ」 あたしは目をつり上げてにらみつけた。 男子にはよくこうやっておどかすことがあるけど、 同じ女子にはあまりやったりしないよ。 でも腹が立ってたあたしは、相手が女子だとか男子だとかを 構わずにおどしをかけてしまう。 「ちょっと来なさい、倫悟」 「やだっ。ぼく、これからさくらちゃんと遊ぶんだ。  話なら家に帰ってからすればいいじゃないかぁ」 「あたしにそんな偉そうな口きいていいと思ってるの?」 あたしは手をグーにして振り上げた。 周りを取り囲っている男子達が「やっちゃえ」とか「やめとけよ」 とか、好き勝手にはやしたて始める。 そいつらをにらみつけた後で、あたしは倫悟に近寄った。 「やめて!」 えっ…!? いきなり富良羽さんは、あたしがグーにしている手を 両手でつかんで下に下ろさせようとしたの。 あたしは、思わず富良羽さんを突き飛ばしてしまった。 ドンっ、という音がして、後ろに転けた富良羽さんは思いきり強く 尻もちをついた。 「やばい、泣かしちゃった」と思ったあたしは、泣き声に備えて 耳をふさごうとした。 でも意外なことに、富良羽さんは泣かないどころか、 すぐに立ち上がって倫悟の前に立って、両手を横に広げた。 まるであたしに”とおせんぼ”でもするように。 「倫悟君がいやがってるのに無理じいするなんてひどい。  暴力で言うことをきかせようなんてひきょうよ!」 「な、何よっ! あんたいったい何なのよ。  関係ないじゃない。引っ込んでなさいよ」 「倫悟君は私の友達だもん! 関係なくなんかないっ!」 あたしは完全に頭にきた。 いくら女子だからって調子に乗りすぎだわ。 「あんた、昨日からずっとムカつくのよ。  あたしをナメてたら容赦しないわよ」 あたしはそう言って指の関節を鳴らした。 でも富良羽さんはちっともびびらない。 その態度がすっごく気に入らない! 「やめろよ、未甘!」 「女子相手に本気になるんじゃねえよ」 「そうよそうよ! 自分よりずっと弱い子にそんなことするなんて  ひきょうよ」 周りで見ているクラスの男子や女子があたしに文句を言う。 「うるさいわねっ! あんた達、殴られたいの!?」 怒鳴ってにらんだらみんなだまった。 何よ、これじゃ、あたしが悪者じゃない。 別に好きで富良羽さんにケンカ売ってるわけじゃないのに。 「とにかくどいてよ。あたしは倫悟に用があるの。  じゃましなかったらケガせずに済むんだから」 富良羽さんの後ろにいる倫悟の首根っこをつかもうとした時―― あたしの手首を、富良羽さんが変な形でグッとつかんできた。 ものすごい速さだったから、一瞬、何があったのか わからなかった。 「なっ……何すんのよ。離してよ」 あたしが手を振ってもビクともしない。 ううん、それどころか関節をひねるような感じでつかまれてるから 痛くて動かせない。 「離し…離して………よっ…!」 富良羽さんは何も言わずにあたしの目をじっと見ている。 怖さと腹立たしさの両方がごちゃ混ぜになる。 あたしは思わず、空いてる方の手で富良羽さんの顔を叩いた。 …はずだった。 けれど―― グルン! ダンッ!! 「うぁっ!!」 一瞬で教室が丸ごと一回転した。 気がつくと、あたしは片手の手首を富良羽さんにつかまれたまま、 教室の床の上にあお向けで倒れていた。 「うっ…」 体を動かそうとすると、床に叩きつけられた背中がすごく痛んだ。 「わあっ!!」 「すげえっ!」 「ウソォ~!?」 そんな声があちこちからした。廊下にも人が集まって来ている。 あたし……、富良羽さんに振り回されて、転かされたの…? そんなのとても信じられなかった。 周りは大騒ぎになっている。 でも、そんな騒ぎ声は今のあたしの耳にはちっとも入らなかった。 「…倫悟君、いこ」 「う……うん…」 富良羽さんはあたしから手を離して、倫悟と一緒に 行ってしまった。 あたしは立ち上がってすぐにおいかけようとした。 だけど、足が震えてうまく立てない。手を床についたら その手も震える。あごもガクガクする…。 追いかけるどころか立つこともできなかった。 その間に富良羽さんと倫悟は、ふたりともどこかに 行ってしまった。 あたし、負けちゃったの………………? **倫悟** 今日のすごかった! さくらちゃんてば、あのお姉ちゃんを一発で やっつけちゃうんだもの。 しかもすっごくかっこよかった! まるでTVのヒーローみたいだったよ。すごかったなあ。 ぼくはあの時のことを思い出すたびに興奮してくる。 さくらちゃんがあんなに強かったなんて、すごく意外だったよ。 近所に住んでいる親戚のお姉さんから合気道を習ってるんだって。 全然、そんなふうに見えないのになあ。 でもあの後、さくらちゃんと遊んだけれど、 さくらちゃん、なんだかあまり楽しそうじゃなかった。 どうしたんだろう。あんなにかっこよく勝ったっていうのに。 ぼく、何か悪いことを言ったのかなぁ……。 家に帰った後、お姉ちゃんから何か言われないかって、 びくびくしてたけど、お姉ちゃんったらてんで元気がなくて、 ご飯もいつもいつもの半分ぐらいしか食べずに、ずっと部屋に こもったまんま。 お母さんが「どうかしたの」って聞いたけど、ぼくもお姉ちゃんも 学校でのことは言わなかった。 ぼくにひどいことした天罰だよ。いい気味さ。 ぼく、明日もさくらちゃんと遊ぶ約束をしているんだ。 さくらちゃん、明日は元気だといいな。 次の日の朝、お姉ちゃんはさっさと朝ご飯を食べると、 ぼくを置いて先に学校に行ってしまった。 「倫悟。未甘はいったいどうしたんだい。  何か学校であったんだろ?」 お母さんに聞かれてもぼくは知らないふりをした。 お父さんは、ぼくにもお姉ちゃんにも何も聞こうとせず、 いつも通り静かにご飯を食べている。 お父さんって不思議だよなあ。 お父さんの方からぼくらにかまってくれることってあまりないのに、 冷たいとかそんなふうに感じることはないんだ。 でも、ぼくらの方から相談した時は、どんなに忙しいときでも 一生懸命聞いてるんだ。それだからなのかな? 「倫悟、のんびり食べてると遅れるよ」 「そういうお父さんこそゆっくりしてていいの?」 「前に言ったろう。お父さんの会社はフレックスタイム制だから  あわてて満員電車に乗らなくてもいいんだよ」 「ふぅん……。よくわからないや」 「さ、本当に遅刻するぞ」 「はぁい。ごちそうさまー」 学校について、教室に行く途中の廊下でさくらちゃんが 声をかけてきた。 「おはよう、倫悟君」 「あっ、さくらちゃん。おはよう」 「ねえ、倫悟君。これ見て」 「え?」 さくらちゃんは会うなり、一枚の紙をぼくに見せた。 「なに、これ? えーと…、  『挑戦場   きのうは油だんしたけどあんたなんかに負けるわけない。   今日の休食がおわったらおく上にひとりでこい。   先生にちくったらあんたはよわ虫って学校中で   いわれるからね。      不らわさくらへ             古津末甘より』  …これって、お姉ちゃんが書いた字じゃないかっ」 「そうなの。今朝、学校に来たら靴箱にそれが入っていたのよ。  古津さん、昨日のこと根に持ってるみたい」 「先生に見せて怒ってもらおうよ」 「だめよ。そしたら古津さん、私のこと弱虫って言いふらしちゃう」 「でも……」 「ううん、大丈夫。こんなの無視するから」 「じゃあ行かないの?」 「うん。私、ケンカは嫌いだもん」 「だって昨日、すごくかっこよかったじゃない」 「暴力じゃ何も解決しないって、合気道を教えてくれるお姉さんが  いつも言ってるもん。合気道の技はケンカをするために  あるものじゃないのよ」 「う、うん…。  そうだよね。うん、こんなの無視しよう」 ぼくとさくらちゃんは笑い合った。 でも、ぼくは本当はすっごく不安だなぁ。 お姉ちゃんのことだから、行かなかったら何するか わからないし。 けど、さくらちゃんが行かないって言うんじゃ仕方ないよ。 それにしてもお姉ちゃんの字…。 すっごく汚い上に、あちこち間違ってるよぉ。 あーあ、自分の名前まで違う字じゃないか。何回もお母さんに 注意されてるのに。「末」じゃなくて「未」なのにさ。 ぼくらは給食が終わった後で一緒に遊ぶっていう約束を して、それぞれの教室に入った。 もう教室にはお姉ちゃんがいた。いつもなら誰かと取っ組み 合ったり走り回ったりしてるのに、今日は自分の席に座ったまま じっとしてる。 時々、クラスの男子が昨日のことで茶化したりしてるけど、 お姉ちゃんは「うるさい」って言うだけで椅子から立ち上がろう ともしない。 ぼくに気づいたクラスの何人かが寄ってきた。 「ねえねえ、倫悟君。富良羽さんと付き合ってるってほんと?」 「えっ…!」 「昨日、お前と富良羽が一緒にいるところ見た奴がいるんだぜ」 「やらしいなあ、倫悟」 「そんなこと…、ぼく」 「さくらちゃんの昨日のあの技、どうやって覚えたか知ってる?」 「あれって空手だろ?」 「ぼく、知らないよ。知らないってば」 「おいおい、何赤くなってんだよぉ」 「わぁ、古津君てば富良羽さんとやらしいことしたんだぁ。  いけないんだー」 「せーんせーに言ってやろー」 まるでいつもと正反対。 いつもならお姉ちゃんの周りにみんなが集まってるのに、 今日はぼくがそうなっている。 やだなあ。ぼく、みんなにこうやって話しかけられるの 苦手なのに………。 こんなにがやがやと質問されているぼくを、お姉ちゃんは ちらりとも見なかった。 キーンコーンカーンコーン。 チャイムが鳴って先生が入って来ると、みんな自分の席に 戻っていった。 7ページ **さくら** 給食が終わって、給食当番だった私は食器の入ったカゴを 調理室まで持って行かなきゃいけなかった。 カゴを調理室で給食のおばさんに渡して、教室に帰る途中で 倫悟君に会った。 「あっ、倫悟君」 「さくらちゃん、今日は給食当番だったの?」 「うん。今、カゴを返して来たところ」 「ねえ、どうするの。やっぱり屋上には行かないの?」 「今朝、言ったじゃない。私、暴力はきらいよ」 「でもぉ……」 「それとも倫悟君は、私と古津さんがケンカする方が  いいと思うの?」 私はいじわるっぽい目をしてみせた。 倫悟君は大きく首を横に振った。 「そんなこと思ってないよ。  でもお姉ちゃんのことだから、行かなかったら  後で仕返しして来ないかな、って…」 「その時はその時じゃない。  古津さん、ちょっとワガママなところあるけど、  そこまでひきょうなことしないと思う」 「うん………」 「そんなことより運動場に行ってみんなと遊ぼ。  クラスで仲良しの子が待ってるから、倫悟君も一緒に」 「うん」 私は倫悟君と一緒に運動場へ出た。校舎を振り返ると、 屋上に何人かいるのが見える。多分、あそこにいるの古津さんね。 でも私は行かないんだから。 私はかけっこで、ブランコの側で待ってくれている 友達の所へ走って行った。 学校が終わって、倫悟君と裏門で待ち合わせの約束を していた私は、みんなに見つからないようにこっそり向かった。 倫悟君ったら、クラスのみんなにからかわれるから、 ふたりっきりでいるところを見られたくないんだって。 もう、シャイなんだから。ふふっ。 ひと気のない旧校舎の角を曲がろうとした時、 誰かの泣きそうな声が聞こえてきた。 旧校舎の裏に裏門はあるんだけど、その校舎の陰から そっと裏門の方を見ると、何人かの子が倫悟君を 取り囲んでいるのが見える。 「おい、倫悟。本当に待ち合わせしてるのか」 「富良羽さん、来ねえじゃねーか」 「だ、だって…、だってちゃんと約束したんだもん」 もう、また男子達、倫悟君にちょっかい出してるのね! 先生呼んで来な………、あれっ。 あそこにいる女子、古津さんじゃない。 「あんた、うそなんかついたらどうなるか  わかってんでしょうね」 「いっ…痛っ! やめて……よ……!」 古津さんは倫悟君の耳たぶをつねって、上に引っ張ってる。 あんなことするなんてひどい。早く先生を呼びに行こう。 「もう待ってらんない! 倫悟、うそついた罰よ。  誰か倫悟のランドセル、川に捨ててやって」 古津さんは裏門のすぐ側にある川を指さした。 うそでしょ…? でも男子達は本当に、3人がかりで倫悟君の手や体を押さえて、 ランドセルを取ろうとしてる。 「いやだっ。やめてっ、やだよ、お姉ちゃん許してえ!」 倫悟君は座り込むようなかっこうをして、いやがってる。 先生を呼びに行っている暇なんかない。 「やめなさいっ!!」 私は猛ダッシュで走って行って、倫悟君を男子達から引き離した。 かわいそうに倫悟君、半泣きになってる。 「来たわね、富良羽」 「倫悟の奴、女子と一緒に帰る約束なんかして、やらしい奴ー」 「すけべ倫悟ー」 「あなた達、どうしてこんなひどいことするの!」 「ひどいこと? あんたがあたしの手紙をシカトしたのは  ひどいことじゃないの?」 「あんなの誰が行ったりするもんですか。  先生に知らさなかっただけでもありがたいと思いなさいよね」 私はきっぱりと言い切った。 古津さんはみるみる恐い顔になる。 「上等じゃないっ! あんた超ムカつくのよっ!  昨日の礼をさせてもらうからね」 「何よ、それ。そんな不良みたいな言葉使いして  バッカみたい。そんなのちっとも恐…」 「うわああぁーっ!!」 急に古津さんは大声を上げて飛びかかってきた。 いきなりでびっくりしたけれど、私はすぐに横へよけた。 間髪入れずにもう一度、今度は私の手をつかもうとしてくる。 けれどそれも私はさっと交わした。 古津さんの動きは、合気道を習ってる友達と比べて 無駄が多すぎる。これじゃ「よけて」って言ってるようなものよ。 「誰かそいつ押さえて!」 古津さんは、私の後ろにいる男子達に向かって怒鳴った。 ちらりと後ろを見ると、3人とも困った顔をしている。 「でもぉ……」 「なあ…」 「何してんのよ、あたしの言うことが聞けないのっ?」 すっごくイライラしたキンキン声で男子に命令する。 なんか私、古津さんってもっと自分と同じくらいケンカの 強い子としかケンカしないって思ってたけど、違うみたい。 もっと明るいのかと思ってたら、結構ネチネチとしてるし。 前は、堂々と元気に遊び回っているところが、ちょっと うらやましいって感じてたけど、ゲンメツしたな…。 「もういいっ。あたしが泣かすっ」 また、私に突っかかって来る。 もちろん、全然速くないから簡単によけられる。 よけようと体をひねった瞬間、私はあることに気がついた。 今の私と古津さんの体勢、合気道の「天秤投げ」がぴったり 合うじゃない! 頭で考えるより早く、私は古津さんの手を取って、素早く技を かけていた。ふわっと一瞬だけ古津さんの体を宙に浮かせて、 一気に地面へ落とす。 あっけないほど、道場で練習した通り、きれいな円を描いて 技は決まった。 「はぅっ………!」 受け身を知らない古津さんは、どんっていう、ものすごい 音を立てて尻もちをついた。 いっけない、やりすぎたかな………。 技をかけ終わった瞬間、すごく後悔した。 「ごめん、古津さん。大丈夫?」 「う……あ…………。  う…ぅぅ……」 丸くなってうずくまる古津さんの、肩をゆさぶってみた。 古津さんはぎゅっと目をつぶって、小さなうなり声しか出さない。 ちょっと泣きそうな顔もしてる。 本当に痛かったんだ…。 私、やっちゃいけないことしたんだ。 「お、俺、保健の先生呼んでこようか?」 「ううん、私行って来る!」 私は保健室まで全速力で走った。 保健室へ遊びにきていた子達と話をしている植野先生に、 わけを話して急いで裏門まで来てもらった。 5分もしない間に植野先生を連れて旧校舎の裏に戻ってきた時、 そこには倫悟君ひとりが立っているだけだった。 **未甘** 最低。 何もかも全部最低! メチャクチャ腹が立つ。 富良羽のせいであたし、すごい恥かいちゃったじゃない! 男子達の前で、倫悟の見てる前で2回も負けるなんて。 しかもヘンな技かけられて思いっ切りカッコ悪かった。 もうあの子、絶対の絶対に許さないから! 倫悟も倫悟よ。あんなかわいこぶった子の後ろをくっついて 回って。あんな子のどこがいいのよ。 あいつ富良羽のこと好きなんだ。小学生のくせに生意気よ。 明日学校中で言いふらしてやるから。 あんな子のどこがいいっていうの? あの子よりあたしの方が背が高いし、ケンカだって……、 ケンカだって本当はあたしの方が強いもん…。 今日のあれ、インチキよ。あの子ズルしたから勝てたのよ。 何かひきょうなやり方知ってるのよ、きっと。 あんなズルい子のどこがいいんだか。バッカじゃないの。 倫悟がうちに帰って来てもあたしは口を聞いてやらなかった。 でも、倫悟の方もあたしにちっとも話しかけて来ない。 いつもだったら「お姉ちゃん、お姉ちゃん」って言ってくるのに。 なんか、すごくイライラする。 晩ご飯を食べてる時、電話がかかってきた。 「未甘、学校の先生から電話だよ。  植野って先生から」 おかーさんは「また何かやったんじゃないだろうね」って 言いたそうな顔をして、あたしに受話器を渡した。 あたしは廊下に出て、キッチンのドアを閉めた。 「はい、もしもし」 「あ、未甘さん。こんばんは」 「こんばんは…」 「あら。元気ないみたいね」 「別に……」 先生は自分の家からかけてきてるのか、TVの音が少し聞こえる。 「今日、またケンカしちゃったみたいね?」 「だって…」 「先生、未甘さんがケガしたって聞いて、  裏門へ飛んで行ったのよ。ケガは大丈夫?」 「なんともない…」 本当はまだ腰やお尻がズキズキしてる。 でも格好悪いから言わなかった。 「そう。だったらいいんだけれど。  でもね…」 「あの、もう切っていいですか?  あたし今、ご飯食べてるから」 なんだかお説教されそうだから早く切りたかった。 「ごめんね、未甘さん。もうちょっとだけ聞いて。  今日、ケンカした理由は倫悟君をいじめたことが  原因なんですってね?  先生、ケンカすること自体は悪いことだと思わないわ。  時にはお互いの意見が合わなくてぶつかり合うことだって  あると思う。  でもね、自分より弱い子に暴力を振るったり、  泣かせたりするようなことはダメ。  倫悟君は未甘さんの兄弟でしょ? いじめたりして  楽しい?」 先生は怒ったような言い方はしてない。 でも、すごくきつく叱られてるような気になる。 「倫悟、あたしの言うこと聞かないもん…」 「それはそうよ。だって倫悟君はあなたの家来じゃ  ないんだから。学年だっておんなじなんだし、  なんでも言うことを聞かせようなんて感心できないわ」 「………」 「そんなことしてたら、未甘さん。  あなた、ただのいじめっ子よ」 「………………」 今度は植野先生、ちょっとだけ恐い声だった。 「…ごめん、ちょっと言い過ぎたわ。  最近の未甘さん、前までの未甘さんとちょっと違うから、  先生つい…。  お母さんに代わってもらえる?」 「はい…」 あたしはおかーさんを呼んで電話を代わった。 「あ、はい代わりました。どうもいつもお世話になっています。  また何か未甘がご迷惑をおかけしたんですか?  もう本当にすみません。口より手が先に出る子で私も困って…」 お母さんがぺちゃくちゃ喋るのを聞きながら、 あたしはご飯をそのままにして2階に上がった。 部屋に戻って、ベッドへ転ぶように飛び乗る。 ふー、ってため息が出た。 …あたしだって、今の自分がなんか変だって思うもん。 思い通りにいかなかったらすっごくシャクにさわるんだ。 でも、男子に倫悟をいじめるように言ったことって、 今まではなかった。 なんでだろ………? 倫悟が悪いのよ。あの子が富良羽の肩持つばっかりするから いけないのよ。 前まであたしの言うことならたいていは聞いていたくせに、 近頃やたら逆らうばかりして。 あーあ………。すごく憂うつ。 明日学校行きたくないな。休もうかな。 …ううん、ダメ。 そんなことしたら富良羽の奴がいい気になるじゃない。 なんとかしてやっつけないと、ずっとナメられる。 明日は絶対に泣かしてやらなきゃ。 あ、でも植野先生に怒られないかな…。 植野先生、別にケンカはしてもいいって言ってたし、 あの子ケンカが少しはできるみたいだから大丈夫よね。うん。 そう決めたあたしは、さっそく本棚からケンカに強くなる本を 取って、富良羽をやっつける作戦を立てることにした。 8ページ **倫悟** 今朝は珍しく、お姉ちゃんは一緒に学校へ行こうって 言ってきた。なんだか気持ち悪いくらい機嫌もいいみたい。 どうでもいいような話をしながら歩いて、 学校に近い所まで来た時、お姉ちゃんが言った。 「ねえ、倫悟。1時間目が始まる前に、富良羽さんに  屋上に来るように伝えてくれる?  昨日のこと謝りたいから」 「そんなこと言ってまたさくらちゃんとケンカするつもり  なんでしょ」 「そんなことないわよ」 「じゃ、なんで屋上に呼び出すのさ」 「みんなに見られたら格好悪いじゃない」 「そんなの自分で直接言えばいいじゃないか」 ぼくが不満そうに言うと、またすぐに恐い顔をする。 「あんたはごちゃごちゃ言わなくていいのよ。  とにかく頼んだからね」 言いたいだけ言うと、さっさとひとりで学校の方へ 走って行っちゃった。 「おはよう、倫悟君っ」 振り向くとさくらちゃんが、軽く息をはずませて立っていた。 「あ、おはよう」 「ねえ、お姉ちゃんと何を話してたの?」 「あのね…」 ぼくはお姉ちゃんの言ってたことを伝えた。 「でも絶対、お姉ちゃんのことだから何か変なこと  考えてるに決まってるよ。行かない方がいいよ」 「ううん。私、行く」 「でも」 「古津さんだってきっとわかってくれたのよ。  それに私も古津さんに謝りたいし」 「謝るって? 何を?」 「昨日の夜ね、植野先生から電話がかかってきたの。  で、古津さんのケガは大丈夫よ、って教えてくれたんだけど、  先生と話してるとき、合気道を教えてくれてるお姉さんがうちに  遊びに来てて、ケンカで合気道の技を使ったことをお姉さんに  知られちゃったの」 「それで?」 「そしたらお姉さん、ものすごく怒って、『合気道は  相手を負かすためにあるんじゃない、相手に負けない  ためにあるんだ』って怒ったの。  で、合気道を知らない子に技をかけるのなら、もう私に  合気道を教えないし、道場にも言って破門させるように  言うって言ったの」 「それでどうなったの」 「私、一生懸命謝った。すごくいっぱい謝った。  倫悟君だけに言うけど、その時、私泣いちゃったの。  30分ぐらいずーっと謝って、やっと許してもらえてね、  二度とケンカに使わないって約束したんだ」 「ふぅん…」 話をしていたらいつの間にか学校の靴箱まで着いていた。 ぼくらは上履きに履き替える。 「だから昨日のこと謝りたいの。  仲直りして、友達になろうって言ってみる」 「さくらちゃんってえらいなぁ。  ぼくだったら、そんなちょっかいばかり出してくる子に  そんなふうに言えないよ」 「じゃあ私、今から屋上に行ってくるね」 「あ、待って。ぼくも行く」 きしむ鉄のドアを開けると、見晴らしのいい屋上に出た。 天気がいいから遠くの街のビルなんかもよく見える。 下の校庭でみんなが遊んでいて、その声が聞こえてくる。 「あれ…、誰もいない」 さくらちゃんはきょろきょろと周りを見渡す。 お姉ちゃんの姿はどこにも見当たらない。 屋上だから誰かが隠れられるような場所はないし…。 「まだ来てないのかなあ」 「うーん…」 ぼくは返事をしながら何気なく後ろを向いた。 その時、鉄のドアの陰から誰か人が飛び出して 来るのが見えた。 ぼくはドンっと突き飛ばされて、後ろに転んでしまった。 「いやっ!」 さくらちゃんの短い悲鳴が聞こえた。 顔を上げるとお姉ちゃんが、後ろからさくらちゃんの 髪を片手でつかんで、もう片方の手で服のえりを 引っ張っている。 「やっ…、誰!? やめてよぉ!」 「お姉ちゃん、やめてよ」 ぼくはお姉ちゃんとさくらちゃんの間に入って止めようとした。 「何するんだよ、お姉ちゃん。  謝るんじゃなか…」 「ジャマよっ」 「あっ!!」 お姉ちゃんの蹴りがぼくのお腹にモロに入った。 息が詰まるくらい痛くて立てなくなる。 「古津さんっ!?  痛い。痛いってば!  ふぅっ…!」 さくらちゃんはお姉ちゃんの手をバッと振りほどいて 振り返った。 「どういうこと? 私、古津さんと仲直りしに来たのよ」 「あんたと仲直り? 冗談でしょ。  今度こそケリをつけようじゃない」 「昨日のこと謝りたいって思ってるの。  私、合気道習ってて、本当はケンカなんかに使っちゃ  いけないんだけど、古津さんに危ない技かけたから…」 「合気道…? 何よ…………。  それ、おどしのつもり?」 「おどしって…」 「そんなこと言ってあたしがビビるとでも思ったの?  そんな幼稚な手にひっかかるわけないじゃない」 「別にそんなつもりじゃ…」 わあ…、まずいよ。 なんだよ、お姉ちゃん。やっぱりケンカするつもり だったんじゃないか。何が「謝りたい」だよ。 さくらちゃん、今度ケンカしたら合気道をやめさせられて しまうって言ってた。 先生呼んでこなきゃ…。 「あれっ! ねえ、あれ何?」 急にお姉ちゃんは大きな声でグラウンドの方を指さした。 なんだろう、と下を見下ろした時、ボカッていう音がした。 「痛いっ!」 さくらちゃんがほっぺたを押さえて座り込んだ。 お姉ちゃんの方を見ると手をグーにして構えていた。 「こんな手に引っかかるなんて単純な奴ー。  今時1年生でも引っかからないんじゃないのぉ」 「古津さん、ひどいっ!」 バンッ! さくらちゃんが顔を上げた時、お姉ちゃんはさくらちゃんの 顔面を思いっ切り蹴った。 「何するんだよおっ!」 ぼくは今、生まれて一番アタマにきた! 猛ダッシュで横からお姉ちゃんの体にしがみつく。 「何するんだ、お姉ちゃん!  謝れっ、さくらちゃんに謝れ!!」 「あんたジャマなのよ! どきなさいよっ」 ぼくを振り払おうと、お姉ちゃんはめちゃくちゃに 体を振り回す。でもぼくは両手でがっちりつかんで離さない。 「ジャマだって言ってんでしょ!」 ボゴッ。 そんな音がした。 「はぁああーっ」 ぼくはあまりの痛さに、しがみついていた手を離してしまった。 お姉ちゃんはぼくの背中をエルボーで思い切り叩いたんだ。 死ぬほど痛くて、息ができなくなるくらいせきも出る。 「痛い、痛い、痛い、痛ぁい!!」 まるで背中に大きな杭を打ち込まれたような感じがする。 僕は赤ちゃんみたいに転げ回った。 「やめて、倫悟君に暴力振るうのはやめてっ」 「うるさいわねっ」 ばんっ、ばんっ、っていう音がした。 痛いのをこらえて目をやると、お姉ちゃんが さくらちゃんの手や背中を無茶苦茶に蹴っている。 背中を丸めて蹴られるさくらちゃんの服には、靴のあとが いっぱいついている。 「やめてっ……。  古津さん、やめ…、やめて……!」 「えいっ、えぇいっ!」 さくらちゃん、泣き声でいやがってる。 がまんしなくても、お姉ちゃんをやっつけることが できるのに、全然手を出さずにうずくまってる。 さくらちゃん泣かされてる……。 「うぉわああぁぁ――ッ!!」 もう、ぼくは何がなんだかまるっきりわからなくなってた。 ただ…。ただ、がむしゃらにお姉ちゃんに突っかかっていった。 何も見えてなかった。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって、 周りなんか何も見えなかった。 泣き声なのか怒鳴り声なのか、自分でもわからない叫び声を 上げながら突っかかっていた。さくらちゃんの声も お姉ちゃんの声も、ちっとも聞こえていなかった。 顔や、お腹や、足や、いろんな所が痛かった。 あちこち蹴られたり殴られたりする。 いつもなら一発でぼくは座り込んでるはずだ。 それでわんわん泣くか、痛さで声も出ずにのたうち回って いるところだ。 でもどんなに痛くても、ぼくはひるまず立ち向かった。 それぐらい憎かった。 何も抵抗しないさくらちゃんに乱暴するお姉ちゃんが、 世界で一番憎かった。 「落ち着けっ、やめろ!  やめるんだ、倫悟っ!!」 気がついた時、ぼくは担任の先生に体を持ち上げられていた。 ぶんぶん振り回していた手足を止めて下を見ると、 さくらちゃんもお姉ちゃんも、ふたりともしゃがみこんで 泣いていた。 9ページ **未甘** 今日はいろんなことが初めてだった。 倫悟にケンカで負けて泣かされたのも初めてだったし、 小学校に入ってから、同じ女の子を本気で叩いたのも 初めてだった。(幼稚園の頃は女の子でも平気で叩いてたな) おとーさんに叱られたのも初めて。 おかーさんにはしょっちゅう怒られてるけど、おとーさんに 厳しく怒られたことってなかった。 あんなに恐いおとーさん見たの、生まれて初めて。 倫悟が前、あたしにひどいことしておとーさんに叱られた時、 ものすごく恐かったって言ってたけど、本当だった。 でも、叱られて当然だよね。富良羽さんにあんなひどいこと しちゃったんだもの。 あたし、なんであんなことしちゃったんだろ…。 どうしてあんなに富良羽さんのことが嫌いだったんだろう。 何かすごく大きく負けて悔しかったんだ。 何かにひどく負けてたような気がして、それで……。 だからって、あんなことしていいわけない。 あたしって……最低………。 やだ…、また涙が出てきた。昼間、ありったけ泣いたのに。 人間ってどれくらい涙が出るのかな。 そんなこと、どうでもいいか………。 すごく……めちゃくちゃ……思いっ切り……かっこ悪かった。 富良羽さん、全然反抗しないのに、泣いてたのに、 力いっぱい蹴ってしまった。 それも何回も…。 もうだめよ。今度こそ絶対学校に行けれない。 みんなあたしのこといじめっ子って言うわ。 もしかしたらあたしがいじめられるかもしれない。 みんなあたしのこと軽べつして、口もきいてくれないかも。 倫悟もあたしを無視するに決まってる。 それで富良羽さんと一緒にあたしのこと無視しようって みんなに言って回るにちがいない。 そんなのやだ………。 あんなこと、しなきゃよかった。 あんなバカなことするんじゃなかった。 べとべとになってるほっぺたへ、またいっぱい涙が出てくる。 もう拭くのもめんどくさかった。 次の日の朝。 あたしは目が覚めてからずっとお腹が痛かった。 おかーさんは仮病じゃないかって言ったけど、 うそじゃない。本当に痛かったもん。 体温計で熱を計っても平熱だったし、下痢でもない。 学校に電話をしてもらって、今日は休みになった。 倫悟はちゃんと学校に行ったみたい。 9時頃になると、うそみたいにお腹は痛くなくなった。 ちっとも眠くないから寝てばかりなのもたいくつ。 起きて倫悟の部屋でゲームをやってたらおかーさんが来た。 「未甘、あんた何やってんだい」 「あの、ひまだったから…」 腰に手を当てて、ジロリとあたしを見下ろす。 失敗したなあ………。 「仮病を使ったね」 「違うもんっ。本当にお腹が痛かったんだもん」 「じゃあ今は痛くないって言うのかい」 「だって……、治ったもん…」 お腹が痛くなくなったのは別にあたしのせいじゃないのに、 あたしはひどく悪いことをしたような気になった。 「さっさと着替えて学校行く支度をしな」 「今からっ?」 「まだ1時間目だろう。今から行けば2時間目に  間に合うじゃないか」 「だって…。今日は休みって学校に言ってあるじゃない…」 「つべこべ言わずにさっさとしな」 おかーさんはガチャッとゲームの電源を切った。 それでもあたしが座って動こうとせずにいると、 コントローラーをあたしの手から取って、空いたあたしの 手をつかむ。 「お前はいちいちお尻をぶたれなきゃ何もできないのかい」 もう片方の手であたしのパジャマを下ろそうとする。 あたしはあわてて自分の部屋に駆け戻った。 1階に下りると簡単な朝ご飯が用意されてあった。 本当に簡単。ご飯とふりかけと目玉焼きだけ。 ちょっとでも時間稼ぎしようと、わざとゆっくり食べていたら おかーさんが「さっさと食べなさい」っていう目をして あたしを見る。 あーあ、行きたくないなあ………。 ただでさえ昨日のことがあるのに、遅刻なんかして行ったら 余計みんなに変な目で見られる。 とうとう目玉焼きの最後の一切れを食べ終わってしまった。 「食べたのかい。なら行きな」 「あのね、おかーさん。なんだかまたお腹が痛く…」 「まだ言ってるのかい、この子は」 洗っていたお皿を、水を張ってある流しのボールにジャボンと 突っ込んで、目をつり上げる。 でも、お腹がまた痛くなり出したのは本当なんだもん。 なのにおかーさんはこれっぽっちも信じてくれない。 あたしはあきらめて、わきのいすに置いてあったランドセルを 背負った。 あーあ、どうしても行きたくないよ。 誰もいない通学路を歩きながら、あたしは学校をズル休み しようかと何回も考えた。でもそのたびに、後でおかーさんに 思いっ切り強くお尻をぶたれることを想像してしまう。 とっても痛いし、幼稚園の子みたいでかっこわるいから 死ぬほどイヤ。それにズル休みしたって行くところなんかない。 ふぅん…。 いつも見慣れているはずの通学路も、1時間遅く家を 出るだけでこんなに違って見えるんだ。 学校に行く子でいっぱいの道も、今は町内からみんな人が いなくなったみたいにガランとしてる。 時々、おじいさんが犬を連れて散歩してたり、マンションの 窓から布団をパンパン叩いてるおばさんがいたり。 みんなあたしの方を変そうに見てる。 こんな時間に学校へ行くなんて、やっぱり変なんだ。 校舎が見えだして、みんなの騒ぐ声が少し聞こえ始めると、 ますますお腹が痛くなってきた。 あたしが学校についたのは、ちょうど2時間目の授業が 始まるチャイムが鳴った時だった。 ひとりだけランドセルを背負ってるあたしを、 みんなはちらちら見ながら教室に入っていく。 やっぱり…………帰ろ。 そう決心したあたし。 でも結局、教室のドアをガラガラと開けた。 「お、未甘。来たか」 40人いるクラスのみんな全員が(倫悟も入れて)あたしの 方を見た。あたしは誰とも目をあわさないようにして、 自分の席に座った。教室はひそひそ声でいっぱいになる。 「ほら、静かに、しーずーかーに。  もう授業は始まってるぞ」 先生が呼びかけても、ひそひそ声は小さくなるだけで、 なかなか収まらなかった。 2時間目が終わってちょっと長めの休み時間になった。 いつもなら、あたしは真っ先に校庭に出たりして誰かと遊んでいる。 でも、今日のあたしはなんとなくみんなに声をかけることが できない。みんなも、あたしに話しかけて来ようとしない。 なんだか妙にぽつんとなっているあたしに、いつも一緒に 遊んでいる男子達のうち、何人かが声をかけてきた。 「なあ、未甘。聞いたぜ」 「昨日、富良羽とケンカしたんだって?」 「富良羽さん、ちょっと顔がはれてたけど、  未甘がボコボコにしたからだろ?」 そんな話はしたくない。聞きたくない。思い出したくない。 「そんなのどうでもいいでしょ」 「俺、3組の奴から聞いたんだけど、富良羽って  空手初段なんだってさ。すげえじゃん、そいつを  やったんだから」 「えっ、違うよ。空手じゃなくて柔道だよ」 「どっちでもいいけど、やっぱ未甘が学校で最強だな」 「あんた達、バカじゃないの!?」 あたしは席に座ったまま、見上げて男子達に怒鳴った。 自分でもびっくりするぐらい大きな声を上げちゃった。 一瞬、周りがシーンとなって、コソコソ、ヒソヒソ、 話し声がしだす。 教室にいづらくなったあたしは、いすをガタンといわせて 立ち上がると、廊下に出た。 意味もなく廊下や階段を早足で歩いていたら、 いつの間にか新校舎の4階まで来ていた。 会議室とか視聴覚室とかあまり使わない教室がある階で、 ひと気がない。 やっと歩くペースを落として、とぼとぼと廊下を歩き続けた。 「古津……さん…?」 誰かに呼ばれた気がして、下を見ていた目を前に向けた。 廊下のちょっと向こう側の所に女の子がいる。 富良羽さんだった。 10ページ **さくら** ”戸締まり係”の私は、先生から預かった音楽室のカギを かけ終えたところだった。 ふと気がつくと、廊下の離れた所から古津さんが 歩いてくるのが見えた。 私が声をかけると、はっとした顔をして、気まずそうに 口をつぐんだ。そして廊下を引き返そうとする。 「待って」 呼び止めても、古津さんは早歩きで行ってしまう。 私は走って追いかけた。 逃げてしまうんじゃないかと思ったけど、古津さんは 歩く速さを変えずに、階段を下りようとする。 私は先回りして階段を2、3段下り、古津さんの前に来た。 「私、昨日古津さんに言いそびれたこと言いたいの」 「……」 古津さんは何も言わずに階段を下りようとする。 それに合わせて私も、もう何段か下りて、古津さんの前に 立ち続ける。 「この前は危ない技をかけてしまって………、  ごめんなさい」 私はぺこりと頭を下げて謝った。 古津さんの体が一瞬びくんって震えた。そしてやっと私の目を 見てくれた。 「だ………だって……だって………、悪いことしたの………  あたしなのに………。謝るの…あたしなのに………」 古津さんは混乱しながら、とぎれとぎれ言う。 「もうひとつ言いたいことがあるんだ」 私はそこでひと呼吸置いた。さすがにそれを言うのは照れくさい。 でも、どうしても言いたかった。 「とも………友達になろうよ」 古津さんの顔は一気にくしゃくしゃになった。 階段のまん中でしゃがみ込んで、転んだ1年生の子のように、 大声で泣きだした。 私は古津さんの手をそっとにぎった。 「泣かなくていいよ、古津さん。  昨日、古津さんがしたこと許してあげる。  だから私がしたことも許して」 古津さんは泣きながら、必死で何かを言っていた。 でも何を言ってるのか聞き取れない。 そのうち泣きやんだ古津さんはしゃくり上げながら話してくれた。 「富良羽…さんに………倫悟…取られた…気がして………。  倫悟……あたしのこと…どうでもいいって…思ってて………  富良羽さんと…ばっかり………遊んで…。それで…」 「そんなわけないよ。倫悟君ってすごく優しいもん。  そんなこと思ってないよ。  それに私、倫悟君をひとりじめになんかしたりしない。  倫悟君は誰の物でもないもん」 「でもあたし…………、富良羽さんに……ひどいこと…した…。  最低なくらいひどいこと………した……。  許してもらえるはずない………、友達になれるはずない…」 「私ね、3年生の頃から古津さんのこと知ってたの。  男子も女子も関係なく、いろんな子と遊んだりケンカしたり  してて、うらやましいな…って。  ずっと前から友達になれたらいいのにな、って思ってた」 自分でもびっくりするぐらい、思ってることがすらすら言える。 ちょっと照れはするけれど、でも今は本音を隠さず話せる。 古津さんは黙って私の話をきいてくれている。 「同じクラスにずっとなれなくて、どうやって話すきっかけを  作ろうかってよく考えてたの。  倫悟君とはね、たまたま話をすることができて、思い切って  『友達になろう』って言ったらOKしてくれたの。  でも古津さんとはなかなか………。  お風呂で会った時、あのとき言ってみようかと思ったんだけど、  倫悟君がいてびっくりして、結局――」 私はへへ、と笑った。 古津さんはもう泣いてなかった。 「そのうち、古津さんってばだんだん倫悟君にちょっかい  出すようになったじゃない?  それで『あれ、古津さんって私が思ってたような  子じゃなかったのかな』って感じるようになって。  でも倫悟君に聞いたら、最初はけなすんだけど、  いつも最後には『乱暴だけど、ほんとは、本当はいい所も  あるんだ』って」 涙を手でごしごし拭きながら、古津さんは「倫悟ったら」と 小さくつぶやいた。不機嫌そうな言い方にも、嬉しそうな 言い方にも見えた。 「誰だってなんだかイライラする時ってあるよね。  そんな時はいけないってわかってても、ついやってしまうって  ことあると思う。私だってそういうこと時々あるもん。  だから古津さんのこと許してあげる。  本当の古津さんは、私が前から知ってる明るい古津さんだもん」 古津さんの顔は赤くなっていた。多分、私も同じように 真っ赤になってる。風邪ひいたみたいにほっぺたが熱いもん。 すごく恥ずかしい。でも、なんだかすごく……気持ちいい。 今まで心の中だけで思っていたことを全部伝えられて。 「友達に、なって………くれる?」 「えっ………。  あの……その…」 指をもじもじさせながら古津さんは困ってる。 「だめ?」 わざと悲しそうな顔できいてみた。 「そんなことない。  えと……うぅ…………、いい…よ」 「ホントっ!」 私はパッと顔を輝かせた。 とうとうなれた。ずっとあこがれてた古津さんと友達に! 今ならなんでもできそうな気がする。 あまりの嬉しさにチャイムが鳴ったことにも気づかなかった私は、 3時間目の授業に遅刻してしまった。 **倫悟** 今、うちの学校で仲良し3人組って言ったら、ほとんどが 僕とお姉ちゃんとさくらちゃんのことだと思う。 学校に行くのも、休み時間も、放課後も、いつだって一緒。 3人一緒にいないところを見た人からは、よく「ケンカでも したの?」って聞かれるくらいさ。 最初にさくらちゃんとお姉ちゃんから、ふたりが友達同士に なった、って聞かされたときはびっくりした。 昨日までケンカしてた(と言っても、お姉ちゃんの方が 一方的に手を出していたんだけど)ふたりが急に 「さくらちゃん」「未甘ちゃん」って呼び合ってるんだもん。 何があったのか聞いても、ふたりとも教えてくれないんだ。 ほんと、女の子ってわからないや。 それ以来、お姉ちゃんがぼくにひどいいじわるをすることは なくなった。気味が悪いほど乱暴はしてこない。 (小さなちょっかいは相変わらずしてくるんだけど…) その代わり、エッチなことをぼくにすることが多くなった。 お風呂に入っていたらインスタントカメラでぼくを撮ったり、 お父さんやお母さんが家にいない時は、たいてい何か理由を つけてぼくの服を脱がそうとしてくるんだ。 この前なんか、親戚の人が死んでお母さん達が夜いなかった時、 お姉ちゃんってば夜中に外で射精させるんだ。 しないとお風呂で撮った写真を町内にバラまくって言うんだもん。 死ぬほどみじめだった。 だけどぼくが「お父さん達に言うから」って言うと、 叩かれることもあるんだけど、時々、胸を見せてくれたり、 触らせてくれることもあるんだ……。 ぼく、いけないって思いながらも、ドキドキして触ってしまう。 その時はすごく嬉しいんだけど、いつも後で後悔する。 やっぱりぼくってヘンタイなんだ。きっとおかしいんだ。 こんなのさくらちゃんに知れたら絶交されるよ。 今日もお母さんは買い物、お父さんは仕事で留守だ。 お姉ちゃんが何か言ってこないうちに遊びに行かなきゃ。 見つからないようにそっと玄関で靴をはいていると、 後ろから声をかけられた。 「あら、倫悟。どこ行くのよ」 「お…お姉ちゃん………」 しまった。 「ねえ、しりとりして遊ぼ」 「やだよ…、どうせまた変なことさせる気なんだもん」 「じゃあ、負けた方があそこを見せるってルールならいいでしょ?」 「そんなのしてたらお母さん達に怒られるよ」 今なら捕まらずに家から逃げ出せる。ぼくはゆっくり立ち上がった。 そうだよ。負けなければいいんだ。負けなかったらちんちんを 見せなくてすむし、それに………。 ぼくはお姉ちゃんの部屋に入って中からカギをかけた。 「じゃあ、あたしからね。  しりとり。『り』よ」 -終わり- 読者の感想